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- 牛牧荘(中世)とは
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牛牧荘(中世) 南北朝期~戦国期に見える荘園名長門【ながと】国阿武【あぶ】郡のうち阿武川河口のデルタおよび周縁部を荘域とする平安末期この地域に摂関家の牛牧があり,康和4年2月3日に牛6頭,永久元年2月3日・同2年8月14日には牛7頭が京都に送られている(殿暦/古記録)鎌倉期においても,建長5年10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書/鎌遺7631)に「〈長門〉牛牧」と見える長門牛牧は南北朝期に入ると牛牧荘と記されるようになった元弘3年8月4日の後醍醐天皇綸旨写(海蔵院文書/東大史料編纂所影写本)によれば,「長門国牛牧庄」は五辻宮家領で,地頭は前右兵衛佐某である建武3年4月13日足利尊氏は当荘および紫福郷を忌宮神社へ寄進,同日高師直はその遵行を守護厚東武実に命じた(長門国志所収文書/長府史料)なお同年月16日の厚東武実の遵行状には「河島庄并紫福郷」と書かれており,当時牛牧荘と河島荘が同じ荘園を指す呼称として用いられていたことがわかる(同前)しかし,翌4年2月3日の高師直施行状(忌宮古文書/忌宮神社文書)によると,当荘の先司代官らが荘内見久新田の知行を妨害している幕府はその狼藉の停止をたびたび命じているが効果は上がらなかったようで,建武5年9月4日にも厚東武実に対し,狼藉を停止させるよう命じている(同前)当荘内に見久新田が開かれていることから牧の耕地化の傾向がうかがえるが,「師守記」貞和3年12月28日条によると長門牛牧荘から牛4頭が近衛家に送られており,牧の機能はなお残っていたことがわかる下って戦国期,文明11年3月5日の安堵状(注進案20)によると,当荘見久新田内の1町歩は大般若経田として春日宮に宛てられていたこれ以後,牛牧荘の名称は用いられなくなり,代わって川島荘の名称が一般化するなお,建武2年2月9日の地頭下文写(椿八幡宮文書)などに「与牧」とあるのは,牛牧が誤り伝えられたものである |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」