ケータイ辞書JLogosロゴ 大榑荘(中世)


岐阜県>安八町

鎌倉期〜戦国期に見える荘園名美濃国安八【あんぱち】郡のうち皇室領鳥羽天皇の皇女,後白河天皇の准母とされた上西門院の所領で,宣陽門院に伝領された新御領といわれる荘園群の1つ(島田文書/鎌遺3274)正治2年1月9日,小山政光の子長沼宗政が源頼家の袖判下文により「もとの如く」当荘地頭職を安堵されている(皆川文書)しかし「吾妻鏡」貞永元年11月13日条によれば,寛喜の飢饉にあたり北条泰時が「美濃国高城・西郡・大久礼」1,000余町の乃貢進済を停めたとあり,貞永元年当時,得宗領となっていたその後建武3年6月,足利尊氏は当荘を湊河合戦の恩賞に宛てようとしているが(田中光治氏所蔵文書),翌4年8月には当荘など6か所の地頭職を光厳院の管領とすべきことを奏している(集)一方,鎌倉幕府倒壊によりいったん没収地として建武新政府の手に入っていた当荘園等には,新政府崩壊後,南朝方も独自に地頭を補任,延元2年5月,後醍醐天皇は当荘3分の1を勲功の賞として二見弥徳丸に与え,興国2年3月には後村上天皇が二見蓮浄にこれを安堵している(二見文書)下って「建内記」永享12年5月20日条によれば,当時荘は泉湧寺知行とされており,また「山科家礼記」文明12年11月15日条では,山科家の近代不知行所々の1つとして当荘が挙げられているが,泉湧寺の有した権利がどのようなものであったかは未詳なお,南北朝期には荘内に勝村郷が存在し,大須真福寺が寺領を有しており(宝生院文書),「天文日記」天文16年12月7日条には「大榑庄五ケ村」と見える江戸期の安八郡には下大榑村・勝村があり,「濃州徇行記」では勝・中・大森・永取・大野・南条・大尻などの諸村が大榑荘と称されている揖斐【いび】・長良【ながら】両川にはさまれた低平地である
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7343086
最終更新日:2009-03-01




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