ケータイ辞書JLogosロゴ 大藪郷(中世)


岐阜県>輪之内町

 鎌倉期から見える郷名。尾張国中島郡長岡荘のうち。正中元年2月25日付で当荘内の北野天満天神宛沙弥信悟寄進状に「長岡庄河東西方大藪切口畠事」とあるのが初見(宝生院文書)。次いで元弘元年8月27日付の比丘尼発心田畠譲状に「尾張国中嶋郡長岡御庄河東大藪郷包次名」と見える。さらに建武4年3月15日粟田口侍従家から大須真福寺への田畠寄進に続き,貞和2年10月11日には長岡荘預所・地頭代の沙弥某による当郷内畠1町歩寄進,また同4年正月22日付比丘尼如民・観応2年3月18日付橘助家などにより当郷内の田畠が同寺に寄進されている(宝生院文書)。その後は織豊期まで未見。本能寺の変後,尾張を領国とした織田信雄は,天正11年9月1日松木城主吉村氏吉に奉行人連署手形を発給し「大やぶ」など「合拾四ケ条三千貫余」を扶助するが,同14年7月23日には改めて「七百弐拾貫四百四拾五文 大屋ぶの郷」など合わせて4,819貫51文を宛行っている(吉村文書)。だが同12年小牧・長久手の戦のさなか,羽柴秀吉は6月21日付で毛利広盛に「本知分」として「弐百貫文 大藪」を安堵しており,元来は毛利氏の本領であったらしい(毛利文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7343241
最終更新日:2009-03-01




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