小屋名村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。武儀郡のうち。はじめ旗本下有知池田氏知行地,のち一部が幕府領となり,文政年間からは全村幕府領。村高は「慶長郷牒」300石,「正保郷帳」701石余,「天保郷帳」「旧高旧領」では1,020石余。文化12年の幕府領は496石余。万治3年,今井・亀山両氏は潮音を開山として黄檗宗臨川寺を創建,同寺は美濃黄檗の初めとなる。当村は寛文期より曽代【そだい】用水開発に協力・参加するが,受水不可能となり貞享8年脱退。文化12年の幕府領分明細帳では65戸・252人・馬26匹,田27町余・畑屋敷19町余。用水は倉知【くらち】用水・山田用水を利用。「そじ」という鮎漁で金1分の川年貢を上納。文政7年の「上知分明細帳」によると88戸・346人,馬30匹。田41町7反余・畑8町5反余。寺院は円通寺・臨川寺・勧修寺・吉祥院・月峰庵・薬師庵。神社は春日社など4社。明治2年の村明細帳では140戸・607人・馬26匹,田68町余・畑27町余。明治4年岐阜県に所属。「町村略誌」によれば149戸・726人・馬45匹,田62町3反余・畑50町5反余(民有地)で,米644石・大麦493石・甘藷6,980貫を生産。明治22年小金田【こがねだ】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7343403
最終更新日:2009-03-01