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- 折立村(近世)とは
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折立村(近世) 江戸期~明治8年の村名本吉郡南方【みなみかた】のうち仙台藩中奥郡奉行支配折立川水域で東は志津川湾に臨む戦国期,葛西氏の末期天正年間には菊地善九郎・千葉彦右衛門が当地に居住したと伝える(古城書上)「元禄郷帳」の村高341石余「封内風土記」の戸口189「安永風土記」によれば,村高は田代28貫余・畑代20貫余で計48貫余,うち蔵入地20貫余・給地28貫余人頭は寛永18年の竿答70人から196人に増加家数200(うち水呑2・借屋2)・人数1,057(男560・女497)・馬208舟は五太木舟・さっぱ舟・かっこ舟で計17中心集落は折立川河口部の浜町(浜折立,現在の折立集落)と同川上流の町(折立町,現在の荒町集落)で,浜町には51軒,町に89軒が集中浜町には塩焼場が置かれ,塩蔵(北向4間半×2間)・素水釜1区(釜主助右衛門ら26人)があり,町は東浜道の宿場であった神社は町の一村鎮守春日神社ほか15社寺は曹洞宗の大滝山海蔵寺・通華山塩前寺の2寺仏閣は那智山堂・高野堂など13修験5か院その後,文政年間の戸口は89戸・831人(本吉郡南方風土記)後期の村高は484石(天保郷帳)天保14年から明治元年まで地内西戸【さいど】に高森養斎(倍禄)が寺子屋を開くまた当地は,慶長16年イスパニアの使節セバスチャン・ビスカイノ一行が三陸沿岸探険測量の際一泊したヨーロッパ人が本吉郡を訪れた最初である「金銀島探険報告」に「金曜日,海路此の地(雄勝)を出で,大なる入江に到りて夜をすごした入江の一端に折立と称する村がある」と記している(異国叢書)明治元年高崎藩預り地となり,以後,桃生【ものう】県・石巻県・登米【とめ】県・水沢県・磐井【いわい】県に所属同8年長清水浜・滝浜・水戸部村の3か村と合併,戸倉村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
折立村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
折立村(近世) 江戸期の村名魚沼郡のうち「おったてむら」ともいう佐梨川の上流から中流域地名の由来は,折り立てたような岩壁があるためとも,押し立てたような断崖が多いためともいう延宝5年山問答によれば,古くは折立・中・湯中居・栃尾俣の諸村に分かれていたが,慶長5年上杉遺民一揆の時,一味同心して上杉家に味方し,以来一村になっていったという(穴沢家文書)元和2年幕府領,同4年高田藩領,天和元年からは幕府領枝郷に折立又新田がある村高は,「正保国絵図」102石余(折立村57石余・中村45石余),「天和高帳」166石余,「天保郷帳」194石余銀山悉皆記(井口家文書)・上田銀山草創記(星家文書)・銀山目安(穴沢家文書)によれば,寛永18年中村の農民源蔵は,国境を流れる只見川(赤川)で鱒漁を行った際に銀鉱を発見して高田城に報告し,上田銀山を開く端緒をつくった「天保郷帳」では一村として見えるが,寛保3年下折立・上折立の2か村に分村... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
折立村(近世) 江戸期~明治11年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
折立村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国直入郡長田郷のうち折立川に沿う谷あいに位置する岡藩領平田組に属す村高は「正保郷帳」91石余,うち田51石余・畑39石余,「見稲簿」「天保郷帳」同高,「旧高旧領」96石余村位は上村岡城下まで1里半安永7年の小庄屋は善左衛門,横目は源右衛門(農民一揆)天保14年から安政6年まで小庄屋衛藤薫が寺子屋を開いていた安政年間には男20人が学んだ慶応4年衛藤薫の発起で折立井路が開削され,田18町8反を開田天満社がある吉祥寺廃寺跡に享禄3年銘の石塔がある明治4年大分県に所属同8年平田村に合併され,以来折立は通称地名として存続現在の竹田市大字平田のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
折立村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
折立村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国大野郡三重郷のうち三重川の支流吉田川上流域に位置する文禄3年福原直高領,慶長2年太田一吉領,同5年からは臼杵【うすき】藩稲葉領下畑組に所属村高は「正保郷帳」には見えず,奥畑村160石余のうちか「見稲簿」「天保郷帳」「旧高旧領」67石余鎮守は天神社明治4年大分県に所属同8年山口村ほか7か村と合併,東谷村となる現在の大野郡野津町大字東谷のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」