ケータイ辞書JLogosロゴ 加賀島(中世)


岐阜県>岐阜市

 室町期から見える地名。美濃国厚見【あつみ】郡のうち。初見は「大乗院寺社雑事記」文明5年正月23日条の「東御方,自八幡菩薩院御下向三乃国加賀嶋殿,今日也」で,前関白一条兼良の夫人東御方が子息の梅津是心院々主を頼って来地しており,さらに五月には兼良も美濃に下向,当地の長寧院に泊まり河手城に斎藤妙椿を訪ねている(ふじ河の記)。織豊期に入り,天正18年と推定される11月5日付の石田三成宛の竹中重隆・伊藤秀盛連署書状に「仍美濃国加賀嶋梅の寺寺領分五拾石ハ,加賀嶋高頭之外ニ御座候,御蔵入高之内,御帳ニハのり不申候」と見え,当地が豊臣政権の蔵入地で,他に乙津寺領50石の存在がわかる(乙津寺文書)。また,当地は長良川の河岸に位置するため港として発達しており,天正20年12月岐阜城主織田秀信は,当地に鏡島湊新町の建設,舟荷物の掟を定め,湊町の諸役を免除している(馬淵鈴之助氏所蔵文書)。なお,「美濃国諸旧記」によると建保2年に関東から花城冠者頼綱が当地に移住して鑑島左衛門尉頼綱と号したという。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7343441
最終更新日:2009-03-01




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