ケータイ辞書JLogosロゴ 加納郷(中世)


岐阜県>岐阜市

 鎌倉期から見える郷名。美濃国厚見【あつみ】郡平田荘のうち。建久2年10月付の長講堂領目録に「革手加納郷」とあるのが初見(島田文書)。室町期に入り,応永14年3月付の同目録写によれば年貢絹10疋を負担,竹内良順と綾小路信俊の当知行であった(集)。次いで「看聞御記」応永24年8月8日条によれば「前宰相所領濃州自加納郷」後崇光院に乗輿の林木が寄進されている。前宰相は綾小路信俊か。さらに,永享6年2月22日条によると将軍義教は「長講堂領美濃国加納郷 綾小路少将有俊当知行」分など3か所に対し,欠所の沙汰をしたことが知られる。その後,嘉吉3年9月には当郷のうち日野右大弁資親跡の所領「三四十斛之土貢」が清水寺の心月坊に宛行われている。これは,嘉吉の乱のさなかに内裏から盗まれた宝剣を,心月坊の承桂が入堂のところ「於内陣奉見付此霊剣」ったことに対する恩賞であった(基恒日記・康富記)。また,延徳2年2月には北野社領の日野郷と当郷との間でなんらかの争論が起ったようであり(北野社家日記),さらに「伺事記録」同年9月21日条によれば当郷のうち4分の1をめぐり二階堂山城左衛門尉尚行と心月坊との間でも争論が起っている。戦国期に入り,斎藤道三は年未詳9月22日付で岸孫四郎に「今日 廿二 於加納 合戦,被討捕織田新十郎之条」の感状を与えていた(岸文書)。織田信長は永禄7年霜月11日に「濃州厚見郡加納郷浄泉房」(のちの円徳寺)に梵鐘を施入したとされるが,寛永17年に再鋳された陰刻銘には「厚見郡上加納庄円徳寺」と見える(円徳寺所蔵梵鐘)。「土岐斎藤軍記」によれば加納城は文安2年8月に斎藤帯刀左衛門利永が築城し,以後子孫が在城したが,天文年中に廃城となる。その後,徳川家康は関ケ原の戦後,旧加納城址に築城し,岐阜城を廃してその楼閣や礎石などを移築した。翌6年3月,奥平信昌が入部して加納藩祖となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7343626
最終更新日:2009-03-01




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