ケータイ辞書JLogosロゴ 加納町(近世)


岐阜県>岐阜市

 江戸期の町名。厚見郡のうち。加納藩領。加納藩の城下町。城下の基は慶長6年奥平信昌が10万石を以て封じられたことに始まる。城郭とその侍屋敷,中山道沿いの町方からなる。はじめ300余の侍屋敷が城の西方を中心として広大な土地を占めていたが,度重なる藩主の交代や封地の減少に伴い侍屋敷もしだいに縮小。幕末には侍屋敷が外畑として残されていた。当地は中山道六十七宿の1つで美濃十六宿中唯一の城下町の宿場。東は鵜沼【うぬま】宿へ4里8町,西は河渡宿へ1里半。慶長12〜13年頃上川手にあった宿駅を移し,以後宿場町を兼ねるようになった。寛永11年藩主大久保忠職治政の時,宿役人・本陣・年寄・宿高庄屋等の諸役を置いた。宿場の長さは約18町。カギ型路で東より八幡町・荒町・柳町・新町・七軒町・本町1〜9丁目,新町と交差して広江町の通り,本町の北裏には田町・東天神町・西天神町,他に南北に清水町・魚屋町があった。本陣・脇本陣は本町3丁目。宝暦5年の「濃州厚見郡加納駅諸事覚帳」によれば本陣1軒(藤右衛門)・駅問屋1軒(善左衛門)・御使者宿1軒(脇本陣・滝屋孫作)・岐阜問屋1軒(商人問屋・助右衛門)・旅籠屋30軒余・商人宿20軒余。寛政12年宿方明細書上帳には本陣・脇本陣各1軒,問屋場3か所,旅籠屋26軒(うち中3軒・小23軒)と記す。天保14年には本陣・脇本陣各1軒,人馬継問屋場2か所,旅籠屋35軒(うち中14軒・小21軒)と記す(加納町史)。当宿の助郷は元禄7年で11か村・高1万2,280石。加納城下には天満宮,臨済宗久昌山盛徳寺・光国寺,曹洞宗久運寺,浄土宗良善寺がある。光国寺は藩祖奥平信昌の室亀姫が慶長19年に建立,同年卒去した2代忠政の菩提となり,忠政の法名をとって寺号とした(全国寺院名鑑)。明治4年岐阜県に所属。同16年藩士居住地であった加納6か町(加納1〜5丁目・加納長刀堀)と中山道沿いの町方に分離,同22年前者は西加納町,後者は東加納町となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7343627
最終更新日:2009-03-01




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