ケータイ辞書JLogosロゴ 上真桑村(近世)


岐阜県>真正町

 江戸期〜明治30年の村名。本巣郡のうち。はじめ幕府領,明和7年からは幕府領大垣藩預り地。村高は「慶長郷牒」「正保郷帳」1,462石余,「天保郷帳」1,823石余。延宝3年東川原を開拓して生じた田畑および竹林と入会地の問題で下真桑村と紛争,翌4年9月近江国市田理右衛門・伊勢国川井助左衛門によって検地が実施された。宝暦10年の家数186(うち高持百姓134)・人数891。嘉永4年の家数209・人数839(真正町史)。二毛作田が多く産物は米・大麦・小麦・菜種・レンゲ・木綿・芋等。天正年間以来特産の真桑瓜生産は引き続き盛んで,1反につき1,000個収穫され,代々将軍家へ献上し,下真桑村と合わせて瓜田1町歩の年貢免除の特権が与えられた。途中上納は中止となっても瓜種の上納がなされた。宝暦10年には瓜種を献上し,武蔵国府中村で真桑村から出向の作人によって栽培された(真正町史)。中世以来根尾川(のちの糸貫川)灌漑用水をめぐって,莚田井組との紛争が続き,寛永18年幕府の裁定によって番水制が規定され,一応解決したが,旱魃が続くたびに水争いは続いた。元禄年間,この村の高持百姓福田源七郎が,真桑七ケ井における紛争解決をはかり,番水制を確立。当時の農民は源七郎の労に報いるため,源七郎を芸題とした操人形芝居を村祭りに上演し,功を讃えた。後年真桑文楽と称する操人形は,その頭(かしら)が文楽以前のもので,この地域では元禄以前すでに上演されたと推定され,鎮守八幡神社(のち物部神社)の祭礼に奉納された。枝郷に旦内【だんない】・八ツ又があり,旦内には鎮守諸木神社のほかに春日神社・御鍬神社,真言宗御室派仁和寺末薬師寺・真宗本願寺派慶円寺,八ツ又には神明神社・白山神社がある。本郷には浄土真宗本願寺派乗泉寺がある。明治4年岐阜県に所属。同14年の戸数236・人口1,113,総反別191町余,産物は米・大麦・小麦・粟・黍・大豆・実綿・麻・藍・葉煙草・菜種・芋・真桑瓜など(町村略誌)。明治6年日知学校創設。同校はのち真桑学校と改称。さらに下真桑村の知新学校に合併。同24年の濃尾地震の被害は267戸中全壊224・半壊43(震災誌附1)。同30年真桑村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7343781
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ