ケータイ辞書JLogosロゴ 岐阜(中世)


岐阜県>岐阜市

 織豊期に見える地名。美濃国厚見郡のうち。長良【ながら】川の中流左岸,金華山とその西麓付近一帯に当たるか。「濃陽諸士伝記」によると,「忠節・今泉・早田・井口」を岐阜と定めたという。「言継卿記」永禄11年11月10日条に「三州徳川左京大夫所へ沢路隼人佑差下,予岐阜へ下向之次也」とあるのが初見。翌12年5月,耶蘇会宣教師ルイス・フロイスは,信長から布教の許可を得るため当地に下向し,美濃および岐阜の状況を詳細に「日本耶蘇会年報」に記録している。それによれば,「近江の国を過ぎて,美濃の国に入りしが,大部分は平地にして山少く,樹木繁茂し,大なる川(長良川か)あり,舟にて之を渡る,途中石の偶像の頭なきもの多数を見たり,信長之を除くことを命じたるなり」と記し,さらに「我等は岐阜の町に著きたり,人口約一万なるべし……其出入の騒しきことバビロンの混雑に等しく各国の商人,塩・布・其他の商品を馬に附けて来集し,家は雑沓して何も聞えず,或は賭博し,或は食し,或は売買し,或は荷造し,或は荷を解く者,昼夜絶ゆることなかりき」と城下の繁栄ぶりを記している。信長は城下町の建設にあたり,かつて斎藤道三が稲葉山城に在城した折に大桑城下の町人を引越させ町並みを作らせて大桑町と名づけた例にならい,尾張清須城下の町人たちを移住させ空穂屋町・新町・岩倉町などをつくらせたほか,尾張や各国の商工業者を招致して居住させたといわれる(中島了以記文,岐阜志略)。この他,誓願寺・誓安寺・法華寺などを清須から移建し,城下を鎮護したという(旧岐阜市史)。また「岐阜志略」によれば,岐阜総構の内は内町,構の外は外町と称し,南口の御園,西口の岩倉町,北口の中河原の3か所で市立があり,それぞれ市神の榎が植えられていた。その1つ,現岐阜市若宮町の粕森神社付近に残る大きな榎(市史跡)は御園市の市神として信長がまつった伝承がある。永禄11年10月付で信長が「楽市場」に宛てた定書は(円徳寺文書),当市に下されたものともいわれるが,楽市楽座が行われた位置については諸説がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7343972
最終更新日:2009-03-01




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