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- 沢渡村(近世)とは
「沢渡村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 沢渡村(近世) 江戸期~明治8年の村名安曇【あずみ】郡のうち姫川源流の山間地に位置する集落は山麓の緩傾斜地にあり,東部は姫川を挟んで水田地帯が広がる地内北西に月夜棚城跡があり,枝郷三日市場地区には古代遺跡・城跡・社寺など史跡が多い当地は仁科氏の一族沢渡氏の拠ったところで,永禄10年武田晴信が信濃に進攻した際,生島足島神社に8月7日付で武田氏に対し逆心のない旨の起請文を奉った中に仁科氏の親類被官の一人として沢渡盛則の名が見える(生島足島神社文書/信史13)武田氏滅亡後の天正10年9月19日,小笠原貞慶は沢渡盛忠に当地を安堵,翌11年5月17日にも同様に安堵している(御証文集/同前15・16)天正16年2月念3日の年紀を有する地内三日市場の沢渡神明社の棟札銘によれば,同社はこの時社殿の建替えが行われたが,願主は沢渡盛忠であった(信史16)沢渡氏は天正18年9月小笠原秀政が下総国古河に移封された際,これに従った江戸期は松本藩領大町組に属する村高は,「慶長改帳」344石余,「正保書上」「元禄郷帳」ともに268石余,「天保郷帳」500石余,「旧高旧領」503石余慶安元年の新田検地の際に細野村を分村(信府統記)享保20年の家数125・人数731,馬60・牛98米作が中心であったが,耕地・生産量は少なく,畑では主に麻を産したまた,千国街道が村内を通り,当付も荷継宿として栄え,馬方・牛方・歩荷に従事する者も多かった集落は散在しており,享保年間頃の枝郷は三日市場・反田・日向大左右・堂崎寺院は沢渡に曹洞宗貞麟寺,三日市場に曹洞宗真宗寺(のち廃寺)があった神社は三日市場に沢渡神明宮がある同社は鎌倉初期に沢渡郷鎮護の社として,土豪沢渡氏が建てたものと考えられる明治4年松本県を経て筑摩県に所属同7年の戸数112・人口501,馬111・牛70同8年神城村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 沢渡村(近世) 江戸期~明治8年の村名伊那郡のうち天竜川上流右岸の段丘端に位置し,北を太田切川,南を猪の沢川が流れる天保5年に殿島村飛地となった木裏原に接する高遠【たかとお】藩領古くは眼田【まなこだ】村といい,「天正高帳」にも「眼田」として高102石余が記される正保年間の伊那郡之絵図にも伊那街道に沿って眼田村とあるただし,文化3年の旧事記録(唐木家文書)によると「眼田村 古高百二石一斗一升二合,今ハ殿島トーツ所ニ成ル」とあり,江戸期は天竜川対岸の中殿島村に属していた眼田村は再三分村を訴願,慶応元年に沢渡村として分村が許可された(伊那市史)同2年諏訪社を創立明治4年高遠県を経て筑摩県に所属同8年西春近村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 沢渡村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 沢渡村(近世) 江戸期~明治7年の村名美濃国可児【かに】郡のうち下江渡【しもえど】村が正保期以降7か村に分村して成立はじめ平岡頼勝の知行地承応2年平岡頼資の領地没収により以後幕府領となる「天保郷帳」の村高238石余「旧高旧領」は217石余文化7年村明細帳の戸数17・人口58明治4年岐阜県に所属同7年下恵土村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 沢渡村(近世) 江戸期の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」