ケータイ辞書JLogosロゴ 志津野荘(古代)


岐阜県>関市

 平安末期〜室町期に見える荘園名。美濃国武儀【むぎ】郡のうち。長寛元年の美濃国諸荘未進注文に「蜂屋本庄廿八疋・同志津乃廿四疋」とあり(陽明文庫所蔵文書),蜂屋【はちや】荘の一部であったか。建長5年10月21日の近衛家所領目録にも「庄務無本所進退所々」の1つとして「高陽院領内 美濃国蜂屋・志津野」とある(近衛家文書)。同目録によれば志津野は,嘉禄3年普賢寺三壇阿弥陀護摩用途に宛てられ,文暦元年長谷前大僧正円忠入滅の際,普賢寺殿の遺言で法印静基に譲られたという。その後建武3年9月3日光厳上皇院宣案で実相院僧正増覚が大雲寺領志津野荘を安堵されており,以後実相院門跡領となり,延文年間には王有なる者が,応安年間から按察寺がその代官であったらしい。この間荘内には志津野・塩生・太山・小牧の4郷が成立しており,寛正2年には4郷の守護半済分が実相院に返付され,同5年には守護使不入の地とされた(実相院文書)。現在隣接する加茂郡富加【とみか】町地内に大山・川小牧の地名がある。戦国期には地内志津野城(椎倉山・天守山)に諸将が入ったが,「武儀郡古蹟名勝誌」では古く正応4年佐々木一族長屋信定が城主となり,永禄7年永井道利が築城,元亀3年まで支配したとし,「美濃明細記」は池田恒興がいたとする。そのほか天正期には金森長近あるいは上有知【こうずち】佐藤氏が支配したという(佐藤金森由緒書等)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7344547
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ