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- 神明町(近世~近代)とは
「神明町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 神明町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は飛騨国大野郡灘【なだ】郷二之町【にのまち】村のうち宮川上流右岸に位置する町名の由来は,町内にある杉ケ谷神明神社の社名によるという宮川か...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7344837]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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神明町(近世~近代) 江戸期~昭和34年の町名江戸期は堺町のうちはじめ北本郷,元禄6年北組に所属文久3年改正の堺大絵図によれば,大道筋に面し,東六間筋西側から西六間筋東側までを町域とする天正16年6月6日の島津義弘書状(島津家文書3/大日古)には,義弘が鹿児島から大坂に上った時のことを記しているが,閏5月のこととして「廿三日夜をかけ堺之津へ着船,北之神明町経王寺と云ふ法花寺へ宿を定」と見える元禄8年の「手鑑」によると地子銀907匁余・役家数70軒,享保5年には地子銀907匁余・家役数69役(堺市史5),寛政11年の石銀家数寄帳では家数37軒・地子銀907匁余・家役数71役(全志5)文久3年改正の堺大絵図には,東六間筋東側に,町名由来ともなった神明宮が描かれている明治12年堺区,同22年からは堺市の町名昭和34年神明町東1~3丁・神明町西1~3丁となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
神明町(近世~近代) 江戸期~現在の町名新町通御池下ルの町寛永14年洛中絵図では「新町神明町」とあり,「京雀」に現町名が見える町名は後白河法皇の院御所ともなった高松殿の旧地にあった神明社にちなむという(坊目誌)当町には,糸割符商人の布袋屋加兵衛,両替屋の越後や次郎兵衛,長崎問屋の菊屋市郎左衛門・中村吉左衛門などの商人が店を構えていた(京羽二重織留)江戸期は上艮組新シ町の西洞院組に属し,新町通西側は24軒,東側は15軒の軒役を負担(宝暦町鑑),祇園会に際しては鈴鹿山の寄町として5斗の地ノ口米を負担していた明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】25番組,同5年第28区と改称,同25年第23学区に編成明治22年南神明町の一部を編入明治12年上京区神明町,同22年京都市上京区神明町,昭和4年中京【なかぎよう】区神明町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
神明町(近世~近代) 江戸期~現在の町名松屋町通中立売下ルの町町名は,聚楽第内にあった神明社の地と伝えることによるという(府地誌)寛永14年洛中絵図には現町名で記され「しみつ上ル二丁目」(寛文12年洛中洛外図)とも称したこれは清水町(現東堀町)を基準とした町名であろう町内には,陸奥二本松藩丹羽左京太夫(京都大概覚書),信濃飯田藩・陸奥二本松藩(慶応4年刊京町絵図細見大成)の京屋敷があった江戸期は上西陣組の新シ町である聚楽組須浜七町組明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】15番組,同5年第16区と改称,同25年第12学区に編成明治12年上京区神明町,同22年京都市上京区神明町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
神明町(近世~近代) 江戸期~昭和11年の町名起立年代は不明芝【しば】の大通りで,宇田川町の南,芝大神宮の前に位置していた町名は大神宮をもとは飯倉神明宮と称していたことによる文政10年の総家数185軒,うち家持3・家主13・地借35・店借134・空家16(町方書上)明治元年東京府に所属同5年武家地を合併(府志料・画報)同年の戸数159・人口685,物産は煉油・鼈甲・銀・象牙・櫛・笄類・菓子折・指物類(府志料)明治11年芝区に所属同41年の世帯数510・人口2,090昭和7年大部分は芝浜松町1~2丁目の一部となり,同11年東部の国鉄線路敷のあたりは海岸通1丁目の一部となった現行の浜松町1丁目・海岸1丁目のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
神明町(近世~近代) 江戸期~現在の町名御前通今出川上ル3丁目の町江戸期は北野天満宮社領(境内)町名は,「延喜式」神名帳にも見える高橋神社が江戸末期まで鎮座したことによる(府地誌)寛永14年洛中絵図に現町名が記される明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】3番組,同5年第6区と改称,同25年第5学区に編成明治12年上京区神明町,同22年京都市上京区神明町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」