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- 菅谷(中世)とは
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菅谷(中世) 戦国期にみえる地名出雲国能義【のぎ】郡のうち富田【とだ】城北方の丘陵部で,天文12年3月18日・同20日の「毛利元就・隆元連署感状」によると「三月十四日,於富田要害菅谷口合戦之時」云々とみえ,当地において尼子勢と大内義隆方の毛利勢との間で激戦があり,毛利家臣児玉四郎兵衛尉・福井光信らが戦功をあげている(萩閥3・旧県史7)なお「吉田物語」には,毛利方から内藤下野守らが出撃したのに対し,牛尾美作守ら1,000余の尼子方籠城軍がこれを迎撃したとある永禄8年4月11日の毛利元就の富田城攻めにおいては,毛利方の将小早川隆景が尼子秀久の軍と戦い,激戦となったここには尼子氏の里御殿があったまた近くに臨済宗城安寺があり,尼子氏代々の帰依した寺であった |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
菅谷(中世) 南北朝期に見える地名山城国紀伊【きい】郡のうち「すがたに」ともよむ現在の一橋【いちのはし】あたりの谷を呼んだらしく,「山城名勝志」に「土人云,菅谷今架一橋谷也云云,源従泉涌寺東南流出,経善能寺北西新熊野南落一橋流」と記すしかし,「山州名跡志」の一ノ橋に関する記事には,「一説曰,比橋の下,東の谷を号菅谷と云云,然れども土人敢て不知,谷も又無也」と見え,明確ではない建武3年6月の京洛近辺の合戦を述べる「梅松論」の記事に,「南は畿内の敵,……宇治よりは法性寺辺まで責入たりしを,細川源蔵人頼春,内野の手なりしを召ぬかれて,大将として菅谷辺まで合戦せしめ打散しける」とある... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
菅谷(中世) 鎌倉期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
菅谷(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
菅谷(中世) 室町期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
菅谷(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
菅谷(中世) 室町期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」