ケータイ辞書JLogosロゴ 墨俣(古代)


岐阜県>墨俣町

 平安期から見える地名。美濃国安八【あはち】郡のうち。承和2年6月29日付で「応造浮橋・布施屋并置渡船事」を命じた太政官符に初見。同官符により「尾張・美濃両国境墨俣河」の渡船が2艘から4艘に加増,両岸にそれぞれ布施屋が新設された。当地が古くから官道たる東海・東山両道の脇路として重視されていたことが知られるが,現在の墨俣の町が宿駅として発展するのは室町期以降であり,この時布施屋が設置されたのは南方の上宿【かみじゆく】・下宿【しもじゆく】辺かと推測される。中世初期には墨俣渡は鎌倉街道の要地で,源頼朝・藤原頼経(吾妻鏡)・源光行(東関紀行)・阿仏尼(十六夜日記)らが通行している。「十六夜日記」に「洲俣とかやいふ河には,舟を並べて,正木の綱にやあらむ,かけとどめたる浮橋あり。いと危けれど,渡る」とあるごとく,当時は浮橋(船橋)が架けられており,藤原頼経上洛の際には浮橋流損のため修繕期間中逗留を余儀なくされている(吾妻鏡)。一方当地は戦略上の要地でもあり,治承の内乱の治承5年3月,承久の乱の承久3年6月,南北朝内乱の暦応元年・観応3年などに大規模な戦闘が当地付近で展開された(吾妻鏡・玉葉・吉記・太平記・秋田藩採集文書など)。その後宿場は,上宿・下宿の地より現在の墨俣町墨俣に移ったが,「墨俣町史」は移転時期を長享元年としている。当時墨俣は河川交通上も要地となっており,檜材は木曽川を川下げし,墨俣から駄送した。文明15年12月には東山山荘造営のため墨俣湊で160丁を陸上げしている(内閣文庫所蔵文書)。その他,中世末には,文明6年守護代斎藤妙椿が上洛のため墨俣を出陣(大乗院寺社雑事記),斎藤道三の時代にも家臣今枝弥八が墨俣に駆けつけたことを賞しており(金沢市立図書館文書),天正12年には墨俣城(一夜城)普請について秀吉が伊木清兵衛に書状を出している(伊木文書)。また浄土真宗の教線が西美濃一帯に伸びると,「美濃惣坊主支配」の体制が確立,寺院が上中下に格付けされるが,墨俣の満福寺は上に定められていた(西円寺文書)。なお,墨俣城は秀吉が一夜にして築城した一夜城として著名であるが,その築城年月には諸説がある。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7344913
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ