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岐阜県>関市

 南北朝期から見える地名。美濃国武儀【むぎ】郡のうち。初見は建武3年8月10日の鷲見忠保軍忠状写(長善寺文書)。鷲見氏は武家方土岐氏に属し,関・迫・北野辺に転戦している。室町期には刃物業も都での評価を得るまでに発展,「教言卿記」応永14年9月12日条,同記9月20日条,「碧山日録」寛正3年1月2日条,「北野社家日記」延徳元年12月10日条,「実隆公記」大永7年10月16日条等に関の刀剣・カミソリの記事が散見され,「碧山日録」の筆者雲泉大極は寛正2年関大雄寺再興のため下向,滞在しており,関周辺の記事が同年12月の条に多出する。刀鍛冶とともに他の職人の発生も見られ,益田【ました】郡萩原町上呂【じようろ】久津八幡社の応永19年棟札,武儀郡武儀町下之保八幡社の天文10年棟札,関市上白金白山神社の永禄3年棟札,加茂郡白川町坂ノ東新津和泉社の永禄11年棟札等には関住の大工名が見える。戦国期にはすでに商工業の町場が形成されていたと推定されるが,永禄3年(推定)進藤盛光書状には,同氏が「濃州関之打物太刀・小刀・其外束之物商買」について家領に仰せ付けられたとしており(蜷川家古文書),永禄10年12月織田信長は長谷川三郎兵衛に榑座の特権を関から東,米田川(木曽川か)までの範囲で承認(長谷川文書),元亀2年には関の刀匠兼常に鍛冶職を安堵している(武藤助右衛門文書)。その後豊臣秀吉治下の当地は森長可,次いで池田照政の支配となったが(池田文書),当時関在住の長谷川氏は秀吉と昵懇であったことが「長谷川文書」より知られる。その他戦国期には,「貴船神社文書」「明淳寺文書」「梅竜寺文書」「伊木文書」にも当地が見える。関ケ原の戦直前の慶長5年8月池田照政は「濃州関惣中」に対し,協力を要請(長谷川文書),関ケ原の戦後は大島雲八知行目録写に「千弍百三拾六石弍斗 武儀郡せき村」とあり,大島氏の支配となった(竜福寺文書)。なお関住刀匠の作品銘には「応永廿七年二月日 濃州関住左衛門尉兼久」「文明三年 濃州関住兼定」「長享元年十二月十三日 濃州関住人兼綱作」「明応二年八月日 濃州関住兼定作」「明応二年八月一日 濃州関住兼永」等があり,16世紀以降の作品では20振ほどが挙げられる(美濃刀大鑑・日本刀関七流・校正古刀銘鑑)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7344931
最終更新日:2009-03-01




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