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- 早田村(近世)とは
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早田村(近世) 江戸期~明治10年の村名伯耆【ほうき】国会見【あいみ】郡のうち日野川の支流法勝寺川上流に位置し,備後街道に沿う鳥取藩領村高は,拝領高138石余,「元禄郷村帳」159石余,「天保郷帳」157石余(うち新田高18石余),「元治郷村帳」162石余,「旧高旧領」165石余元禄の本免は5.1,「元治郷村帳」の物成は77石余藪運上3匁,大炭運上3匁5分(西伯町誌)戸口は,「伯耆志」15戸・70人,「文久3年組合帳」19戸「伯耆志」によれば,物産は小炭・苧,林は10町余を有し,隣村へは東の二舛【ふたます】村へ30町,南の赤谷村へ16町,西の騂牛【あごうじ】村へ20町,北の定常村へ5町,産土神は法勝寺村にある八幡宮(実際は馬場村に所在),地内には修験当山派戒光院と小祠6,辻堂1がある地内川平山に鎮座する素盞嗚命を祀る小祠は,明治維新後に早田神社と改称安政3年頃の村民の生活状態を9段階に分けた史料によると,22戸のうち中の中1戸・下の上3戸・下の中2戸・下の下14戸・等外2戸(西伯町誌)明治3年の御用方諸事手控によれば,戸数19・人数89,耕地面積12町余・山林面積10町余(同前)幕末には平井氏が寺子屋を開いた明治4年鳥取県,同9年島根県に所属同10年定常・赤谷・大河内・篠畑【ささばた】の4か村と合併して上中谷村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
早田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
早田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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早田村(近世) 江戸期~明治5年の村名播磨国美嚢【みなぎ】郡のうち美嚢【みのう】川支流吉川【よかわ】川流域慶長5年姫路藩領,元和3年明石藩領,延宝7年幕府領,正徳2年からは下野国壬生藩領村高は,「正保郷帳」256石余うち田239石余・畑16石余,「天保郷帳」「旧高旧領」でもともに256石余元禄7年沖村・永門前村とともに栃谷村を相手に鉾立原野の境に関する山論を起こしている同原野については,享保17年・文政13年にも争論となっている(吉川町誌)明治5年楠原村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」