ケータイ辞書JLogosロゴ 中村郷(中世)


岐阜県>御嵩町

 鎌倉期から見える郷名。美濃国可児郡のうち。嘉禎4年7月22日付の官宣旨に初見(御嵩町春日神社文書)。同文書によれば,当郷はこれ以前,国司が国衙領をもって奈良春日社領に寄進したもので,嘉禎4年四至を定め立券された。四至は東境が小泉御厨可児大寺(願興寺)西之小路,南境の東寄りが久々利【くくり】荘境,同じく西寄りが明知荘境,西境が荏戸【えど】春近【はるちか】境,北は大河(木曽川)であった。その後南北朝期の観応2年,「可児中村郷」は飯尾頼国の知行するところとなっており,飯尾の知行は以後永正12年まで確認できる(松雲公採集遺編類纂)。一方,地内には応永年間義天玄承によって臨済宗妙心寺派愚渓寺が開かれたが,同寺には室町後期に斎藤利永らによって周辺の山地が寄進されており,永享11年の大垣内衛門・藤本道藤・今井左近(宗源)3者連署の山地寄進状に「飯尾殿御知行中村二分方之内」,文安6年3月27日付の斎藤利永山地寄進状に「鷲巣方知行中村郷之内放岡等」と見える(愚渓寺文書)。また文明の乱の際,東軍の小笠原氏等信濃勢が東濃に進出,文明7年には当地で斎藤勢との間に合戦があり,同年(推定)6月10日付の今枝蔵助宛斎藤妙椿書状写には「今度中村 合戦」と見える(金沢市立図書館所蔵文書)。なお,「愚渓寺文書」の文安6年寄進山絵図に見える宝塚は,永享11年の山地寄進状では円峰と書かれている。中世末期塚上に愚渓寺支坊が建てられ宝塚庵と号したが,のち廃絶し,現在は塚上に薬師像7体が安置されている。また,現在塚周辺を今井と呼ぶが,それは寄進者今井宗源の名によるものという。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7345532
最終更新日:2009-03-01




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