ケータイ辞書JLogosロゴ 生津荘(中世)


岐阜県>穂積町

 鎌倉期から見える荘園名。美濃国本巣郡のうち。近衛家領。建長5年10月21日注進の近衛家所領目録に「生津庄 行頼」とあるのが初見で,「京極殿領内」と注記されもと藤原師実の所領であった(近衛家文書)。降って,嘉元3年4月ごろと推定されている摂籙渡荘目録の法成寺末寺のうちに「仲林寺生津庄内」と見え,当荘内に法成寺末の仲林寺が所在(九条家文書)。南北朝内乱期に入り,北朝の光厳上皇は建武3年11月28日近衛基嗣に当荘など相伝の所領を安堵しており,翌12月2日「院宣加一見候」旨の足利尊氏書状が基嗣に出され(近衛家文書),同家領として室町初期まで伝えられた。「兼宣公記」応永元年11月4日条によると,近衛良嗣は将軍足利義満の勧めにより広橋兼宣を同家年預と当荘内東方の奉行に任じている。次いで,長禄3年12月土岐嶋田益忠は幕府に多芸【たぎ】荘・時多良【ときたら】郷・四ケ春近【よんかはるちか】などとともに「生津庄東方地頭職 除今峰村之」の地頭職に還補されんことを言上している(蜷川家文書)。その後,戦国期には石清水八幡宮別当善法寺家が当荘に得分権を有していたらしく,永禄4年善法寺は借銭7貫文で「生津庄公用」を能村氏に譲渡,その後天正2年2月4日5石を返弁し「如前々,可有御直納」旨の明智光秀書状を得ている(石清水八幡宮文書)。なお,「百錬抄」寛喜2年6月10日条に「去八日,美濃国生津庄内,雪降,委地二寸計」と見える。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7345773
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ