ケータイ辞書JLogosロゴ 西田原郷(中世)


岐阜県>関市

 南北朝期に見える郷名。美濃国武儀【むぎ】郡のうち。南北朝初期飛鳥井雅朝の所領で,美濃守護土岐頼貞の押妨があったため遵行させたという(濃飛両国通史)。その後,推定弘治2年12月の桑原右近衛門尉宛斎藤范可(義竜)知行宛行状に「にし田わら」と見え,翌3年と推定されるかち田年貢銭目録には「にし田わら 四百貫」とある(斎藤文書)。なお,応永のころ土岐頼忠の子田原頼郷は加茂郡田原に住したといい(土岐系図),明応5年の城田寺【きだいじ】の戦では,田原兵部少輔が石丸方につき敗戦,30余人とともに殉死した(船田乱記)。また享禄3年田原左衛門が勝山の猿啄城を築城,天文11年8月の大桑城落城の際には,土岐方に田原左衛門・田原式部安久の名が見える。天文16年田原左衛門一族の多治見氏に城を奪われ,その後織田信長は永禄5年猿啄城(勝山城)主に河尻肥前守与兵衛を配し,田原・大杉などを支配させたという(関市史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7345871
最終更新日:2009-03-01




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