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- 野口(中世)とは
「野口(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 野口(中世) 室町後期から見える字名山城国愛宕【おたぎ】郡中村郷のうち賀茂別雷神社領宝徳3年4月2日,中村郷地からみ帳(写)に,「高縄手ノ東,尻ハ泉川,南ノ一,野口」と見え,「二反 祝部公事名 作人〈同所(出雲路)〉浄幸」以下,北に連なる7筆計1町の田地を書き上げてあるのが初見天文19年11月10日の同郷検地帳の冒頭にも「野口南一,カキセマチ迄」として,同じ場所の田地を記載しており,別に「野口溝」あるいは「野口縄手」なる名称も見える(以上,賀茂別雷神社文書)両帳の地図上復元によれば,この地は現在の左京区下鴨膳部町西部,下鴨本通沿いである宝徳3年の地からみ帳にいう「高縄手」は下鴨本通にあたるまた,「野口溝」はいまの下鴨東半木町辺りから下鴨西本町地内を経て,野口に至っていた用水路であった |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 野口(中世) 戦国期に見える地名越前国大野郡のうち享禄3年2月27日の崇聖寺領目録に「参百文〈在坪,野口〉」とある(洞雲寺文書/大野市史社寺文書編)また大永7年3月11日の洞雲寺寄進分田地目録には,永正3年4月23日に多見二郎左衛門が自己の給恩地宗安名内にあった「洞雲寺本屋敷之西卵塔」を洞雲寺に売却したことが記されているが,この地は天文23年10月8日の同寺領目録では「野口本,洞雲寺屋敷之西」と表現されている(同前)これらの史料から洞雲寺は戦国期には野口付近に寺を構えていたことが知られる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 野口(中世) 室町期に見える地名応仁2年3月5日付旦那在所注文(米良文書)に「河関田はた三郎二郎重代相伝武蔵国旦那知行分在所之事」として「野口一円」が見える現在地は不明だが,前後の地名関係から幡羅【はたら】・榛沢【はんざわ】郡域(現大里郡)か... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」