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「橋本町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

橋本町(近世~近代)


江戸期~現在の町名明治13~31年は八幡【はちまん】を冠称江戸期は八幡城下の町名吉田川下流左岸に位置し,西は新町に接する寛文年間の八幡町絵図には,吉田川宮ケ瀬橋...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7346077]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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橋本町(近世~近代)

江戸期~現在の町名油小路通竹屋町下ルの町寛永14年洛中絵図に「橋本町」とあり,中井家系の絵図では以後変化はないが,「京雀」「京雀跡追」には「松本丁」と見える江戸中期頃まで,両町名が併用されていたと考えられるが,「橋」と「松」が混同された可能性も考えられる当町には明和9年の町定があり,それによると,町の諸経費,町中の土地の買得・譲渡,元服料などについて決められており,町中24名の者の連印があるこの24名のものが,当町中の家持層のみなのか借家人層をも含んでいるのかわからないが,明和年中,当町に少なくとも24世帯が居住していたことがわかる(福井楳吉家文書)また,当町には京都の枡座を預かった福井家の居宅があったこの福井家が枡御用を受け継いだのは寛永11年の徳川家光の上洛を契機にしてであるが,以後,江戸期を通じて福井家が京枡座を預かり,寛文9年には京枡が全国の統一枡とされた(福井楳吉家文書)当町には豊後杵築藩の松平氏の京屋敷があり,さらに名酒蘭菊を売る関東屋・竹葉,同じく若みどりを売る井筒屋,また同じく初ざくらを売る広永やなどの酒屋が並んでいた(京羽二重織留・京羽二重)江戸期は下川東組の廿四町組に属し,38軒の軒役を負担明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】20番組,同5年第23区と改称,同25年第18学区に編成明治12年上京区橋本町,同22年京都市上京区橋本町,昭和4年中京【なかぎよう】区橋本町となり現在に至る

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

橋本町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は津山城下の1町,町人地明治22年津山東町,同33年津山町,昭和4年からは津山市の町名津山城の南東に位置する東は林田【はいだ】町,西は宮川を隔てて材木町,南は吉井川を隔てて八出村,北は上之町に接する町名の由来は宮川橋に接することによる宮川橋は,宮川大橋・津山大橋とも呼ばれ,現在では単に大橋という南流し,吉井川に合流しようとする宮川にかかる橋で津山城の東の入口として重要な位置にあった町の成立は森氏による津山城築城当初で,城の防備上大きくかぎ形に曲折した出雲往来に沿っている西の材木町とともに当初は城大工の住む町であった元禄10年の城下町図によれば,家数23うち持家21・借家2,人数288(男156・女132)当時は大工職が少なく紺屋の方が多い(津山家数役付惣町竪横関貫橋改帳)当町は交通の要地にあたり,人通りが多く大工職中心の職人町から商人町へと変わった明治初期の戸数25・人数140(津山誌)明治期東座という劇場があり,大きな芝居小屋であったが,明治末期に全焼した劇場当時の稲荷神社が残っていて,明治35年の市川右団次の奉納灯籠がある大正末期には朝日劇場が建てられ昭和11年姫新線全通記念の催しが行われたという鉄道開通後町の中心が移り,静かな商業中心の町となった世帯数・人口は,昭和45年56・123,同55年30・73...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

橋本町(近世~近代)
江戸期~昭和40年の町名・大字名滋賀郡のうち江戸期は俗にいう大津100か町の1つで,幕府領町名の由来は大橋があることによる浜通りの中央で東に大橋堀と池洲【いけす】町,南に袋町,北に彦根藩蔵屋敷(彦根他家・沢山多屋)と扇屋ケ関があった東の大橋堀には坂本町との間に大橋が架せられていた元禄10年酒造業4軒のほか,米問屋・蔵元・荷問屋などが居住していた(大津市史)この町の豪商納屋仁兵衛(化政期)は魚問屋・両替商・尾張名古屋藩蔵元を勤め,その邸宅には能舞台兼用の座敷をもち,調度類も豪奢を極めた(大津市志)文政元年の幕府御用金は町の総額9名で8,100両,うち仁兵衛が4,000両,坂田屋平右衛門が1,500両を負担している幕末には文人塩商邨田柳厓がいた慶応元年大津宿役を負担した役家は26軒あった(大津市志)自治組織は元会所町組明治以後は豪商の没落により大津祭の曳山の維持すら困難となり,明治19年「郭巨山」を鍛冶屋【かじや】町に譲っている彦根藩蔵屋敷跡には三汀社という汽船会社ができ4艘の船で湖東方面に就航したこともあるまた八幡銀行もここに建てられた明治5年滋賀県に所属同21年池洲町を合併同22年滋賀郡大津町成立に伴い大津町大字橋本町,同31年大津市橋本町となり,昭和40年中央1丁目と浜大津1丁目の各一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

橋本町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は広島城下新町組に属す広島城の東方,西国街道に沿い,京橋川に架かる京橋の西詰町名は京橋のたもとにあることによる(知新集)また京橋はかつて広島の東限であったことから内町とも呼ばれた(旧県史)元和5年の城下絵図では町間数1町13間寛永2年の家数改では本家41・借屋60「知新集」によれば,町間数2町27間,家数47・竈数53(本竈18・借竈35)・人数232うち本道医・鍛冶各2,紺屋・竜吐水細工人各1横田屋は広島開府の時高田郡横田村から来住,薬種を商った鉄鍔などの鉄細工職人法安久次家は浅野氏に従い紀伊国より来住,歴代扶持職人大畑屋は下駄荒物商酒造・穀物商を営んだ伊予屋は組大年寄・綿改所頭取・銀札元役などをつとめた豪商で,安芸郡府中村の鹿籠新開を開拓(知新集)明治11年広島区,同22年広島市の町名となる明治16年の広島諸商仕入買物案内記では呉服商4・乾物卸2,糸物商・紙類商・薬種商・下駄草履商など各1の計13明治期以降も海田・呉方面から市中心部に通じる道筋として車・馬の往来が頻繁であったが,第2次大戦後道路網の整備が進み裏通りと化した大正6年の戸数67・人口264,昭和26年の世帯数67・人口289同40年上柳町・下柳町の各一部を編入同55年中区の町名となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

橋本町(近世~近代)
江戸期~昭和45年の町名江戸期は岡山城下の1町,町人地明治11年岡山区,同22年からは岡山市の町名城下の南部,外堀と内堀の間に位置する西国往来筋,旭川に架かる京橋西詰の町で,南は船着町,西は西大寺町,北は川崎町と接する京橋は文禄年間の架設で,町名は京橋の本【もと】の意味という京橋の長さ68間・幅4間(吉備温故秘録)なお道路元標も当町に立っていた天明8年調べで,問屋数は諸物17・塩6・炭4・薪3(旧岡山市史4)貞享元年の岡山町中御検地畝高地子帳(池田家文庫)によれば,高29石余・畝数9反9畝余,徳米31石余・口米6斗余また元禄13年の地子米高は3石で,町の格を示す内町中で西大寺町とともに1位であった岡山随一の豪商の両替商塩屋武田家,惣年寄淀屋佐々木家が居住佐々木家は代々惣年寄を勤め,享和元年破産,上道郡倉田へ移住し,明治2年には大庄屋格となった(同前)なお宝永5年11月,大火で全焼した(近世岡山町人の研究)嘉永7年の家数73,人数162うち男78・女84(旧岡山市史3),昭和7年の戸数51,人口342うち男181・女161(同前6)同45年京橋町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

橋本町(近世~近代)
江戸期~現在の町名四条通小橋東入の町町名は当町の西側を流れる高瀬川に架けられた四条小橋にちなむ高瀬川は慶長年中に角倉了以によって開削され,寛文10年に四条以南五条以北の川筋が町地として開発されてから繁華な様相を呈した寛文12年洛中洛外大図には「橋詰町」とあり,宝永2年洛中洛外絵図に現町名が見えるまた「中島町」とも称した(宝暦町鑑)江戸中期には鳥屋・竹道具屋・羽箒屋の諸職商家が知られる(京羽二重)江戸期下中筋組の下河原三十二町組,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】12番組,同5年第14区と改称,同25年第14学区に編成明治12年下京区橋本町,同22年京都市下京区橋本町となり現在に至る同28年4月1日,当町の西を南北に通る木屋町通を,七条停車場から岡崎公園の博覧会場を結ぶ京都電気鉄道が開通し,さらに同45年6月11日には,当町の中央を通る四条通に市電が走り,そのため四条通は拡幅されて北側の町地が減少した(坊目誌)なお京阪電鉄四条駅の開設により,当町一帯は料理店・旅館の密集する繁華街に変貌(京都ダイレクトリー)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

橋本町(近世~近代)
江戸期~昭和9年の町名江戸期は1~4丁目があった明暦の大火後既成山光明院願行寺・日照山専求院法禅寺・当知山重願院本誓寺などの寺院が駒込【こまごめ】や深川に移転した跡地に開かれた町で,町名は正保年間頃この地を拝領した博労役橋本源七の姓にちなむ4丁目に願人長屋があり東叡山支配の願人坊主がいたまた4丁目と馬喰【ばくろ】町2丁目の間を付木店【つけぎだな】といった明治元年東京府に編入同5年,3丁目は江川町となり,4丁目を3丁目とし,1~3丁目に改める同年の戸数557・人口3,054,物産は革煙草入・きせる・象牙根付緒締・筆・べっ甲細工など(府志料)明治11年神田区に所属昭和9年東神田となる現行の東神田1~2丁目のうち...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

橋本町(近世~近代)
江戸期~現在の町名新橋通大和大路東入2丁目の町江戸期は知恩院領町名は白川に架かる新橋によると伝える正徳3年町地となる洛外町続町の1つ享保17年この地に茶屋渡世が許可されて以来,祇園内六町の1つとなり,祇園新地に属する花街となった当町は慶応元年の祇園新地焼けおよび昭和20年の強制疎開を免れ,お茶屋街としての旧態を今にとどめている明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】24番組,同5年第15区と改称,同25年第15学区に編成明治12年下京区橋本町,同22年京都市下京区橋本町,昭和4年東山区橋本町となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

橋本町(近世~近代)
江戸期~昭和44年の町名・大字名江戸期は彦根の城下町の中の町名城下町南部の町家地域で,町名の由来は芹川【せりかわ】(善利川)に架かる芹橋の畔に位置することによる元禄8年の人口(武士を除く)は274(大洞弁財天祠堂金寄進帳)嘉永3年の戸数は49,うち借家28(四手町組家持及借家数留書/彦根市立図書館蔵)明治22年,犬上郡彦根町の大字となり,昭和12年に彦根市橋本町となる同44年,住居表示の実施により,現行の河原2丁目の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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