ケータイ辞書JLogosロゴ 二木郷(中世)


岐阜県>墨俣町

 鎌倉期から見える郷名。美濃国安八【あんぱち】郡のうち。嘉元4年6月12日付の昭慶門院御領目録に「二木郷 泉涌寺」とあるのが初見(京都大学所蔵古文書集)。下って,正中2年5月2日付の関東下知状によると,大慈寺新阿弥陀堂と地頭山中八郎次郎重綱との間で「美濃国二木郷内西一色・中本・東脇参カ村」の元応元年から正中元年の6か年に及ぶ年貢未進をめぐる相論が起こるが(3か村の比定地は未詳),永仁年中の堤破損により当郷は無足であったため,重綱知行分富田村の下地を寺家に渡すことで和与が成立(内藤文書)。次いで嘉暦3年2月28日付の六波羅探題御教書に「美濃国二木郷惣領地頭円俊代円慶申,濫妨公文名由事」と見え,当郷の公文名を違乱する某氏に召文が出されている(猪熊信男氏所蔵文書)。また建武元年10月10日後醍醐天皇より「□□信有」なる者が当郷などの地頭職を安堵される(京都大学所蔵古文書纂)が,応安元年10月11日付の後光厳天皇の口宣によって三位局(庭田資子)の所領となった(柳原家記録)。室町期に入り,幕府は康正2年に内裏造営段銭1貫文を「籾井殿美濃国二木庄」に賦課するが当郷との関係は未詳。その後,当郷の領家方は山科家が知行するが,文明3年12月には守護土岐氏の押領で不知行となる(山科家礼記)。長享2年5月20日守護土岐成頼は「山科殿御家領濃州二木郷・革手郷各領家方并久徳五ケ庄等」を山科言国に還付させ,守護代斎藤利藤を代官職に命じている(久守記)。なお「山科家礼記」寛正4年閏6年23日条には「にんきの雑掌」と見え,また近代になって鎌倉期の二木【ふたつぎ】荘地域であったとの伝えにより,現在の輪之内町域に仁木【にき】村が成立するが,当地との関連は未詳。あるいは同名の2郷があったか。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7346480
最終更新日:2009-03-01




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