前方一致 全文(カスタム検索)
Guest Guest
  1. JLogos検索辞書>
  2. 本町(近世~近代)とは

「本町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

本町(近世~近代)


江戸期~現在の町名明治13~31年は八幡を冠称江戸期は八幡城下の町名吉田川右岸,小駄良【こだら】川左岸に位置し,北は鍛冶屋町,東は殿町に接する承応2年横町から出...

全文を表示する


[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7346682]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

◆関連辞書(JLogos内)


  1. amazon商品リンク
本町(近世~近代)

江戸期~現在の町名昭和41年から1~3丁目がある江戸期は前橋城下町人町の1町で,明治22年前橋町,同25年からは前橋市の町名となる貞享元年の「前橋風土記」による城下19町のなかに町名が見える(県史料集1)前橋城大手門の東方,前橋八幡宮から東西に長く延びる町で,南は連雀町,東は片貝町,北は紺屋町・桑町と接する天正13年北条氏直から木島助右衛門が領国内の連雀頭に任命され,その時から前橋城下の町割りが着手されたという(前橋市史3)当町は町割りにあたり城下町の中心として天川原村から分離され,新規の市場町として設定された享保13年の検地帳(前橋市立図書館蔵文書)や同17年の検地帳(前橋市立教育館蔵文書)によると,面積4町5反余・屋敷79筆,1人で2筆の屋敷地を持つ者がおり,名請人数73地割りは,表間口が5間から10間,奥行は20間から30間が大半を占める短冊形間口16間4尺の松井新兵衛が最高で,最低は2間2尺,屋敷地の面積は最高1反8畝余,最低1畝1歩で,5畝前後が最も多い町の長さは上町94間半,中町91間半,下町94間半なお文政4年の前橋総町絵図(勝山氏蔵文書)でも,面積4町5反余となっている当町は沼田街道・江戸道の基点で,本陣・問屋や旅籠屋も多く,早くから町年寄2名が任命されて城下町全般の統制的役割を果たしてきた酒井氏の家臣勅使河原三左衛門の記した「直泰夜話」によると,天和3年町内上町・中町・下町の3か所で市が取立てられたとある市は連雀町の商人頭木島氏が統制にあたり,同氏は市神牛頭天王の神輿を守護していた市への商品は,元禄年間頃から顕著となってきた生糸・繭が江戸後期にかけて次第に多くなり,本町の市は糸市として機能し,繁昌した特に安政6年の横浜開港後は飛躍的活況を呈し,前橋提糸は海外にまでその名を知られるほどであった「松平藩日記」によると,宝暦2年米穀や沼田煙草の営業出願など出されており,江戸中期以降,市日以外の商品取引が始まった特に1月9日の初市は現在もにぎわいをみせている家数は,安永9年11月16日の大火記録(松平藩日記)に総家数105うち焼失家屋93,その内訳家主81・店借12・土蔵5とある寛政2年の家数人別書上帳(前橋市立図書館蔵文書)では組数9・家数95・竈数95,その内訳家主83・借家9・尻付3,男212・女183,浪人5,持馬8と減少しているその原因はたび重なる大火と,近隣の才川村や細ケ沢町にも市が立てられたこと(御用雑日記/松井家文書),城主松平氏の明和4年川越移城などであろう本町では,復興対策として天明6年沼田藩などの伝馬宿を勤めていることを理由に旅籠屋取立と下女差置願(松井家文書)を差し出し,旅籠屋1軒につき下女3人までを条件に許可されたが,さほどの効果は望めなかったしかし江戸末期に生糸取引が盛んになると町も活気を呈した嘉永7年の五人組帳(同前)では,組数9,家数は家主71・借家41・組外7・町年寄2・問屋1・名主1の計123軒,人数は男251・女253,下男20・下女2となり,流入人口による借家が全体の3分の1を占めた本町の諸商人をみると,慶応4年には前橋城下合計106人の米穀商人中12人,また質屋2軒・酒商5人もあり,旅宿は本陣松井権四郎・島田新兵衛のほか,本町下宿久仁屋・伊勢屋・白井屋・油屋・岩附屋六兵衛(岩六)があった(同前)八田屋松井権四郎は宿屋・本陣・呉服商として藩御用達であったまた幕末の前橋城再築に当たっては,本町出身の勝山源三郎が585両の献金をしている(松平藩日記)なお初代市長下村善太郎も文政10年本町生まれ,小間物屋から生糸商人として産をなした人物である明治6年本町を基点に馬車鉄道が熊谷まで開通同7年本町から出火,相生・片貝町など121戸を焼失したこの時下村善太郎宅も類焼,その後下村は洋式ポンプ2台を町に寄贈した明治9年本町商人が中心となった運動によって群馬県庁が前橋に開庁すると本町は金融街として成長を始め,前橋生産会社の設立や第二国立銀行支店(横浜興信)の開店に続き,同11年には第三十九国立銀行も営業を開始したこの時前橋女児学校が本町に設立されている同25年前橋警察署(現本町1丁目),また翌年前橋電灯が設立された大正5年明治商業銀行支店(現富士銀行)や上毛実業銀行・足利銀行支店などが次々に開店した昭和20年8月5日の空襲により,町内の98%が焼滅したが死傷者はなかった当時の戸数183・人口867であった(戦災と復興)同28年本町通りの東部電車軌道が取り払われ,戦災復興により金融街として整備された同41年片貝町・連雀町と曲輪町・北曲輪町・竪町・南曲輪町・堀川町・田町・相生町・天川原町の各一部を編入,本町1~3丁目となる

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

本町(近世~近代)
江戸期~昭和40年の町名久保田本町・秋田本町ともいった江戸期は出羽国秋田郡のうち秋田藩領久保田城下町の1つ4~6丁目がある成立は秋田大町3か丁より遅れ,4・5丁目は慶長10~12年に町割がなされ,6丁目は慶長17年以後である(秋田名蹟考)大町3丁目の南に当たって4~6丁目が並び,4・5丁目は寛永8年,大町~馬口労【ばくろう】町直通の通り筋として整備された6丁目の東は船大工町,西は十人衆町,南は旭川から寺町に抜ける堀で区切られている元和年中に4丁目に綿布・本綿切売りの家督権が認められ,元禄年中には絹布・古着解分の専業権も付加された慶安2年大町1丁目にあったたばこ屋が本町5丁目に移され,文化3年久保田町全体で33軒のたばこ屋が許可されるようになった(市史)同5年6丁目の指物師・挽物師が他町の同業乱立を押さえるため株を拝領,専業権を獲得別称を附木【つけぎ】小路というのは付木を作っていたことに由来するという(秋田名蹟考)6丁目はまた文政12年那波三郎右衛門裕生が73人の同志を糾合し育子御執行・窮民御救を目的に150両を基金とする10か年月1分の利息を加えた465両を募金によって,同年2月1,000両銀10貫目を得,藩庁に出頭した秋田における福祉機関のはじまりである寛文3年の4丁目の間数36間・家数36戸,5丁目の間数66(外町では鍛冶町に次いで大きい)・家数64戸,6丁目の間数40間・家数64戸(外町屋敷間数絵図)延宝2年4丁目広島仁右衛門方から出火,31町へ延焼し,2,018戸を焼失その後,通りの幅員を3間に割直したが,天明3年にも同じく4丁目平沢久助方より出火,28町へ延焼,956軒を焼失した明和6年に5丁目斎藤方から出火1,302戸を焼失した寛永9年白髯水と呼ばれる出水により四丁目橋・五丁目橋が流失,以後この両橋をはね橋とした安永元年4丁目の見上三左衛門に諸物産取立てのため紅花座を仰せ付けた(町触控)宝暦期,4丁目に赤津氏による私塾赤津学校が創立され,東北一の規模といわれる間口4間・奥行25間の2階建てで階下に男子400名,2階に女子50名の生徒数を誇った明治4年から秋田町の町名同11年南秋田郡に所属同22年秋田市の町名となる明治に入り5丁目に2番小学校として広業学校が設立され,同7年もと斎藤伊三郎の家塾が五巷学校として開校,同13年久成学校と改称,同17年旭北小学校に吸収された同16年の戸長調べでは本町4丁目以下11町の戸長役場が5丁目に置かれ,翌17年横町に移る同15年の市場調べによると5丁目の市場の市日は12月20~30日(新旧ともに)で,品目は松葉をはじめとする年越用品であったが,景況は衰微同17年12月の「秋田町商人録」によると佐藤山三郎が醤油醸造を業としていた同18年4丁目の家数69戸,5丁目の家数112戸,6丁目は104戸であるが,いずれも翌19年の俵屋火事によって全焼同11年4丁目に秋田電話局設立,同15年にその楼上に秋田測候所が置かれたが,同19年測候所は長野町に移転電話局の南に同21年ジョーンズ・スミスによる秋田基督教会が設立され(信者59),会堂を設け日曜学校を開いた同38年の市場一覧によれば6丁目に毎日魚類を扱う市場があった大正13年の「秋田市統計一覧」によれば従業員10名以上の企業に5丁目の鶴吉足袋工場(48人)・秋田酒造株式会社(10人)がある昭和5年作文教育の同人雑誌「北方教育」が6丁目の豆腐製造業成田氏の2階を発行所として刊行,同9年楢山三枚橋へ移り,北日本国語教育連盟となった昭和40年住居表示実施により,大町4~6丁目の各一部となる...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

本町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は城下町伊勢崎の町人町「伊勢崎風土記」に町名が見える(県史料集2)伊勢崎城の南を東西に走る道沿いの町で,西に西町,東に片町,南に裏町,北に新町・間之町などがある寛永19年の検地帳(伊勢崎市立図書館蔵文書)による名請人筆数34,ほかに本町下として12筆も見えるまた「伊勢崎町新古日記」の宝暦13年屋並間数・軒数等書上(同前)によれば,間数は城表門前から新町南端と接する地点の高札場まで164間,高札場から下の木戸まで46間の計210間,家数86うち店借22当町は古くからの町で,本陣が置かれ,1と6の日の伊勢崎の六斎市もはじめ当町だけで開かれていたが,寛永20年11日と26日分を新町へ,万治2年朔日と16日分を西町へ分け,当町では6日と21日にのみ開かれることとなった(伊勢崎風土記/県史料集2)町域のうち,西町から新町角までが本町,そこから片町寄りが下宿と俗称されたが,安永5年下宿に火災が起き,それを契機に高札場から分水して用水堀が通された(伊勢崎町新古日記/伊勢崎市立図書館蔵文書)また享保6年当町借家人四郎兵衛がほかの屋敷を借りて湯屋を開業し,のち裏町住民杢太夫がそれを買取って営業を続けたが,これが伊勢崎の湯屋の始まりという(同前)明治9年鉦打郭を当町域の南部にあたる字本町南へ編入同16年字本町南は南町となる同年間之町の一部を編入し,町内を1~3丁目に分けた同18年の戸数は,1丁目65・2丁目84・3丁目50同43年4丁目を新設,昭和15年錦町を5丁目,下植木の一部を6・7丁目としたまた明治33年町内に群馬商業銀行が創立同36年3丁目のうち川東を分割して町名を新設したい旨の願書が出されたが,区域内に不承諾があり,願書返付扱いとなっている4丁目には,大正15年伊勢崎町役場庁舎が完成し,昭和10年には本町郵便局が開局,昭和34年に株式会社いせやが開業した明治44年の戸数・人口は1丁目218・1,133,2丁目102・530,3丁目45・234,4丁目42・218世帯数・人口は,大正9年には1丁目77・341,2丁目98・628,3丁目60・359,4丁目93・398,昭和5年には1丁目52・333,2丁目87・638,3丁目58・357,4丁目157・750,同15年には1丁目48・308,2丁目77・563,3丁目55・302,4丁目161・855,同25年には1丁目63・315,2丁目105・538,3丁目87・426,4丁目266・1,250,5丁目429・2,142,同35年には1丁目54・285,2丁目89・536,3丁目79・415,4丁目248・1,151,5丁目439・2,015昭和45年476・1,981(男923・女1,058),同55年328・1,150(男539・女611)昭和20年戦災による焼失戸数は1丁目6・2丁目49・3丁目36・4丁目26・5丁目92町名は,明治22年から伊勢崎町,昭和15年からは伊勢崎市の通称町名として存続同42年正式町名となる同年丁目の通称を廃し,栄町・新町・南町・日吉町・南町・宮元町・西町の各一部を編入,同時に一部が大手町・中央町・平和町となるなお,6丁目は東本町,7丁目は下植木町となる...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

本町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は田辺城下八町の1つであり,明治22年田辺町,昭和17年からは田辺市の町名となる会津川左岸から熊野街道に沿った東西の町並み(竪町筋)と,田辺城大手筋に沿った南北の町並み(横町筋)からなる竪町筋の南は片町,北は紺屋町,東は横町筋となる横町筋の南は外濠,北は湊村地内,東は片町・袋町・長町慶長11年浅野氏重が湊村城(田辺城)を築城した際,城下の中心として最初に町割りされたこれが町名の由来といい,最初の居城西谷村上野山城の城下として形成された古町などから人々が移住してきた慶長18年浅野氏は田辺大橋を架けるため橋板費用などを城下にも賦課,当町は銭1貫600文・銀50匁7分を負担(万代記)寛永21年には五人組頭数11(同前)当町は田辺城下の中枢機能をもち,人々の往来も激しく,享保10年には古手商8・大工7・旅商人宿6・酒屋5があり,ほか塗師屋・綿打屋・麹屋・仲買・畳屋・傘屋・仕立物屋など多業種の商職人がいた(田辺諸事控)同年の町並みの長さは,竪町筋南側が111間,同北側が104間,横町筋は東側が69間,西側が64間,竈数119軒,借屋は56軒,蔵26,井戸60,先の商職人のほか医者4人・牢人4人・他所奉公5人・他所稼3人・仲使日用32人など(同前)なお旅商人宿は寛文12年当町のみに許可され,当時3軒,営業場所は南横町のうちと定められた(田辺町江川諸事覚帳/県史近世2)文化3年では家数123軒・人数377(同前)本役家数は宝暦4年で45軒余,ほかに大庄屋1・大年寄3・高札場1・古会所1・伝馬所1など無役家8軒(万代記)伝馬所はのち下長町へ移った高札場は田辺大橋の橋詰にあり,忠孝・切支丹・毒薬・捨馬と浦方用であった大橋付近には木戸が設けられていた天明6年には打毀が起こり,140~150人が瀬戸屋新蔵宅・干かや善右衛門宅を襲った(高山寺雑事記)なお同8年には水かさが3尺もあがる水害にあったが,その以前,宝永4年には大津波により76軒がつぶれたり流されたりする被害にあっている(万代記)明治6年では戸数118,男232・女229江戸期以来,田辺城下各町は湊村地内へ膨張していったが,建物は城下各町の家数に加えられるものの,土地は湊村地内として年貢地のままで置かれることが多かった明治21年では当町全面積2町1反余・戸数131のうち,湊村分面積1反余・同地居住戸数19(田辺市誌)これらの地籍と住民・建物所属先の異同は明治22年の市制町村制の施行に際し整理された同年田辺町の成立により,町役場は当町横町にあった江戸期の町会所に置かれた田辺警察署も置かれ,明治33年には田辺銀行が創設されるなど,中枢機能を保った大正10年町役場は上屋敷町へ移転文里【もり】港が田辺の玄関口となり,国鉄紀勢本線紀伊田辺駅の開設などで交通の結節点が田辺町東部へ移動するにつれ,交通量も減少,以前の活気は失われてきた世帯数・人口は大正14年121・627,昭和5年115・622,同15年118・611,同25年127・612...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

本町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名1~5丁目がある江戸期は宇和島藩の宇和島城下の町名辰野川左岸,城下の東部に位置し,東は裡【うら】町,西は追手通・袋町・竪新【たつしん】町,北は横新町,東は樽屋【たるや】町に接する町名は町方の中心に由来する文禄4年藤堂高虎の入部以前から町方として存在したが,5丁目は藤堂氏の時代に,辰野川【たつのがわ】を山沿いに付替えた時,竪新町・横新町などとともに成立小字に辻井石横丁・横ケ横丁・増原横丁・奈良屋横丁がある元禄16年の城下絵図には本町通と見え,1丁目に郡会所がある安永5年の城下絵図では,郡会所は侍屋敷に変わり,2丁目に町会所が見えるまた,1丁目には本家23,2丁目に31,3丁目に22,4丁目に22,5丁目に21と合計119軒の本家が記されている「町方」によれば,1丁目に来村屋,2丁目に近江屋,4丁目に茶屋,5丁目に松屋などの名が見える明治18~22年宇和島を冠称同22年宇和島町の大字,大正10年からは宇和島市の町名となる「宇和島の明治大正史」によると,本町筋は宇和島目ぬきの町で,有力な商店が並び,店に気品が備わっていた買物に来た客は店の主人を「旦那」,細君を「おかみさん」と呼び,客のほうが低姿勢であったという町民は芸事が好きで,芸事の練習や,宴会での披露を通じて町民の融和がはかられた明治初期の辰野川の架橋は町民の寄付によったという主な商店には,1丁目に梁瀬商店(蝋燭・油・砂糖)・黒田金融業,2丁目に中平醤油醸造場(明治24年創業),3丁目に宇和島の御三家といわれる豪商石崎商店(醤油醸造・薬種商)・居村旅館,4丁目に堀部酒醸場(清酒富士娘の醸造)・河野醤油醸造場,5丁目に牧野酒店・朽木陶器店(江戸期以来の御用商人)・巴写真店などがあり,横丁には「彦さん蒲鉾」「菊屋そば」などがあったほかに明治17年宇和島銀行が創立された同26年郵便取扱所が2丁目に移転し三等郵便局となった電報取扱いは明治36年に始まる明治30年4丁目に宇和島貯蓄銀行創立,庶民の金融機関で預金は1口1銭以上を取扱い,各家庭には貯金箱と称し竹筒を配ったなどと述べている明治34年には2丁目に宇和島最初の日刊紙を創刊した南予時事新聞社が創立大正6年活版印刷の広文社創業同15年には街路の拡幅がされたが,その当時は宇和島一の商店街の地位を追手【おうて】町にゆずった昭和4年の「うわじま」によると,法人営業の商工業2・個人営業の商工業者67を数え,反物・古着商,陶器商,染物屋,家具商,酒・醤油・味噌の醸造場などが目だつ他に卸・卸小売商が20戸,病院6軒を数える昭和20年の戦災では1丁目を除きすべて焼失同37年の世帯312・人口881同41年本町追手1~2丁目・中央町1~2丁目・新町1~2丁目となる...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

本町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は大坂三郷南組のうちはじめ1~5丁目,明治5年1~4丁目,昭和5年からは1~5丁目がある1丁目は「本町ばし西詰より西へ」の町で(宝暦町鑑),元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によると家数31軒,役数37,うち無役数2(年寄・会所),年寄は福島屋正章2丁目は「八百や町筋より西へ」の町で(同前),元禄13年の同帳によれば家数41軒,役数49,うち無役数3(総年寄・丁年寄・会所),年寄は布屋九右衛門3丁目は「なにハばし筋より西へ」の町で(同前),元禄13年の同帳によれば家数31軒,役数33,うち無役数3(総年寄・丁年寄・会所),年寄は升屋太郎右衛門4丁目は「せんだんの木橋すじより西へ」の町で(同前),元禄13年の同帳によれば家数35軒,役数44,うち無役数2(年寄・会所),年寄は三木屋九郎兵衛5丁目は「心斎ばしすじより狐セうじまて」の町で(同前),元禄13年の同帳によれば家数31軒,役数40,うち無役数4(年寄・会所・総会所・総代九右衛門),年寄は坂上善信5丁目には浄土真宗西本願寺掛所津村別院があるこれは北御堂とも呼ばれ,慶長2年12世准如が石山の旧跡に擬して建てた津村坊舎を基にする江戸期数度にわたって拡張ないし改築され,明治に至った寛永14年北御堂東南に浄土真宗本派浄照坊(昭和初期に天王寺区に移転),享保11年浄照坊向かいに同宗同派浄久寺が建立された江戸期以来当町は繊維・衣料関係商業の中心地2丁目から4丁目には古手屋が軒を並べ,また歳市も有名であった北御堂前には木偶店が多く,「御堂前の人形の店」と呼ばれていた当町1丁目東横堀川岸の地は,この地点で東横堀が東へ曲がっていることから「東横堀まがりの地」「小松島」と呼ばれた染物屋・手拭染屋が多かったが,明治以降は歓楽地となった当町には絹張小路(安土町と本町の間の東西道),鰻小路(本町1丁目と南本町1丁目の間の東西道),狐小路(御堂筋と渡辺筋の間の南北筋)があるなお大坂の蘭学先駆者麻田剛立は4丁目で医院を開いていた明治2年大阪東大組,同12年東区,同22年からは大阪市東区の町名明治期以降も当町は近江商人を中心とした繊維産業の町として栄えた津村別院は明治初期に大阪府会議事堂・大阪病院教授局となったこともあるが,第2次大戦で焼失,戦後再建された相愛学院は,明治21年津村別院の一部を校舎として開校東区役所は現在1丁目にあるが,これは同34年高麗橋1丁目より移転し,昭和10年新築されたもの同5年北渡辺町の一部を編入し,5丁目が成立世帯数・人口は,大正9年326・3,024,昭和30年163・1,032,同50年58・144...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

本町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は姫路城下の1町町人地明治初年~明治22年は姫路を冠称姫路城の南,中濠に並行する東西の町筋町名は,姫路城中の門前で,城の大手にあたり,城下の中心となっていたことによる(市制三十年姫路市史)山陽道筋に沿う町並み江戸中期には国府寺次郎左衛門本町と称したこともある(内閣文庫蔵松平乗命本姫路城図)これは,代々大年寄の筆頭を勤め,山陽道筋に臨む本陣を構えた国府寺家に由来する同家は安永2年50石10人扶持を給されているこのとき御用宿,当町の合田儀平も10石を給された(市制三十年姫路市史)元文5年家数61,地子銀2貫余(穂積家文書)中の門の前に,高札場があった(播州姫路考略記)当町のほぼ中央に,町年寄の役場である年行事が置かれた(市制三十年姫路市史)のち当町と西二階町など14か町をもって,年行事組合町とし,年輪番によって町年寄が出務した(姫路城史)明治12年年行事跡に姫路神社(御霊社)創建のち昭和2年姫山公園に移転明治4年の廃藩置県により中曲輪より内側の武家地はすべて当町に合併することとされ,明治初期案内社町・岐阜町・桐馬場町・絵図裏町・桜町・小桜町・大名町・市橋町・清水町を当町に合併同20年頃までに侍屋敷の立退きがほぼ完了した明治14年の戸数107・人口413,宅地7,702坪(播磨国地種便覧)同22年姫路市に所属大正元年の戸数159(姫路紀要)世帯数・人口は,昭和2年189・686,同35年1,032・3,987本町の町並みの北にある中濠は,大正2年,昭和7年に相次いで埋め立てられ,昭和8年国道2号が建設された大正10年姫路商業会議所(のちの商工会議所)が設置され,昭和3年移転第2次大戦後,護国神社東に建てられたが,昭和53年下寺町に移る姫路護国神社は昭和13年創建第2次大戦後,旧軍施設跡は,昭和20年県立姫路高等女学校が国府寺【こうでら】町より移転するなど官公庁・学校・公共施設になる昭和22年北条口より第2次大戦で罹災して移ってきた姫路市役所が,昭和55年安田4丁目へ移転,同58年跡地に市立美術館,その北に県立歴史博物館が開館ほかに,動物園・警察署・国立病院・短大・高校・中学校・小学校・教育研究所などの施設が集中するが,近年城跡周辺の官公庁関係の立退きが進み,大手前公園をはじめ,跡地の公園化が進んでいる区画整理により昭和56年一部が総社本町・元塩町・坂田町・大黒壱丁町となり,同年大黒町の一部を編入,昭和59年一部が坂元町となり,同年綿町・西二階町・竪町の一部を編入...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

本町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は唐津【からつ】城下の1町町田川左岸,城下町の中央部に位置し,東は木綿【きわた】町,西は中町と接する唐津築城時の総町十二か町の1町で内町のうち町人地惣行事役の順番は当町が筆頭文化年間頃の町筋は南北1町25間,古来本軒40,当時人数205(男106・女99),引合五人組72人(日田御用掛り苗字帯刀御免1・町年寄2・組頭2・御使者屋守1・御米問屋1・木挽棟梁1・桶師棟梁兼屋根棟梁1・質屋1・当時馬持1),当時の御使者屋守は五郎兵衛,木挽棟梁は茂兵太(松浦拾風土記)江戸期の当町は商人と職人で半々に構成されていた富商が多く,日田御用達は鶴田屋谷崎家,御米問屋は中川家,木挽棟梁は楠田家,桶師棟梁は大西家,屋根師棟梁は吉岡家,御用仕立屋は副田家が勤めた楠田家はほかに町年寄を勤め,出雲大社の社人の宿舎ともなり出雲宿とも呼ばれた藩主土井氏の時代当町に公用役人などが宿泊する御使者屋が設置されたが,水野氏の時代には町並みの反対に改築された小笠原氏時代には町会所兼郷会所となり町役人・村役人の事務連絡所として機能し,町人の宗門改めも同所で実施された明治期には戸長役場となる寛政11年当町ほか9町は,辻番所2か所と毎年10月から3月までの自身番の設置は負担が大きいので,辻番所1か所は夜番とし自身番も辻番所で兼ねたいと藩へ願い出ている当時は町火消し草場支配組に所属(諸事控/唐津市史)弘化3年当町の曳山「金獅子」は8番曳山として製作された「肥前国物産図考」には当町の線香屋が描かれている稲荷社があったが,明治末年に唐津神社へ合祀された明治元年の軒数80・人数252(唐津市史)藩領最後の町年寄は楠田沢右衛門・谷崎庄左衛門(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)「明治11年戸口帳」では唐津町のうちに「本町」と見え,戸数75・人口255明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち明治30年の人口359(唐津市史)明治期には富商が姿を消し,歓楽街となった西側の中町と東側の木綿町を結ぶ町並みとして現在に至る大正4年の戸数67・人口361世帯数・人口は,大正14年62・334,昭和5年62・296,同35年68・297,同41年76・280...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

本町(近世~近代)
江戸末期~現在の町名はじめ横浜町,明治11年横浜区,同22年横浜市,昭和2年からは同市中区の町名横浜町5か町の1町もとは横浜村の一部運上所の北西に位置し,北東は北仲通,南西は南仲通に接する町名は,江戸期の横浜村の本通ともいうべき道筋を中心とする地域であり,また安政6年開港に際して建設された市街の中心でもあったことにちなむ当初西から東へ字1~5丁目に分けられていたが,明治4年には東から西へ字1~5丁目となり,西端には新たに字6丁目を設けた明治初年洲干町通の一部を編入昭和3年一部が日本大通となる幕末には中居屋重兵衛が銅瓦の家屋を建てるなど貿易商人の家屋・店舗が立ち並んだ慶応元年商人会所とイタリア領事館,同2年フランス公使館が建設された明治2年横浜為換会社(明治7年横浜第二国立銀行となる)および横浜通商会社を設立明治5年金穀相場会所設立同年ガス灯が1~4丁目に10数基点火され,同7年には時計台をもち石造2階建ての横浜町会所がつくられる同11年には町会所は,横浜区役所となり,同22年には横浜市役所が置かれた明治19年全輸出生糸の調査を企図した蚕糸調査所を,生糸荷預所跡に設置(横浜市史3上)同44年市役所が港町に移転,大正6年跡地に横浜開港記念館が完成同記念館は関東大震災の際にも倒壊をまぬがれ,第2次大戦後米軍に接収されたが昭和32年接収解除となった明治23年横浜銀行設立,同43年平沼銀行と改称明治26年横浜若尾銀行設立幕末から横浜ビジネス街の一画を占めてきた当町には,現在も各銀行の本支店などが立ち並んでいる戸数・人口は,明治36年362・2,583,大正6年238・1,694世帯数・人口は,昭和4年98・207,同22年22・22,同55年15・35...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

本町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治9~22年は西尾を冠称江戸期は西尾城下の1町西尾城郭三の丸東沿いの町,城郭からは一段と低い矢作【やはぎ】川下流左岸,碧海台地の緩斜面の端に位置する城下町のうちの表6か町の1つ往古は海岸で,本町・塩町付近一帯を石原と称した地名の由来は,市店が連なる本通りを形成したことによる(西尾町史)西尾城下の中心市街地で,藩の御用達を勤めた富商が軒を並べていた本町通りは幅員2間,南北一直線の道路で,北端は康全寺に突き当たり,横町通りと通じる南端は須田町通りと直線で通じ,西に折れると西尾城の新門がある江戸中期西尾城主三浦氏当時の町家図に,東側28戸,西側23戸の町家が記され,平均間口は西側5間,東側4間明治以後も富商の町としての性格は変わらず,その業種は,度量衡器具・肥料・油・味噌溜り・米穀・荒物雑貨・呉服・薬などで,飲食店・娯楽関係の業種はみられない曹洞宗向春軒は寛政元年康全寺の塔頭として創建,大正8年錦城町の現在地へ移転明治5年向春軒で西尾郷学校開校,翌6年西尾義校と改称同13年西尾学校と錦丘学校が改組して共進学校・西城学校が開校し,共進学校は本町向春軒に設置された同20年本町から塩町へ移転し塩町学校となる同22年西尾町,昭和28年からは西尾市に所属明治25年の戸数51・人口246,うち職工1・人夫16・寺1世帯数・人口は,昭和元年54・343,同45年60・258大正元年本町の大火で全焼16戸・半焼4戸,ほかに土蔵・物置など,南部の3,000m[sup]2[/sup]が焼失被災地の復興には既設道路から約1mひかえて建築が行われた昭和8年道路改修が行われ,街路灯・歩道が付き,街路灯の配線は地下に埋設され,近代的街路が竣工した...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

本町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は高松城下の1町高松城総曲輪のうち,内町5町の1つ曲輪の東側に位置し重臣屋敷に隣接している町名の由来は,曲輪内の町人町の中央部にあたる町という意味による寛永17年の高松城下図には,いほのたな町・とぎや町・たたみや町に囲まれて町が5つに区割りされている高松の場合は生駒氏時代は大手門を出た東方にあたり,松平氏時代になって門(太鼓門)が内部の東側に移り,旭御門前の番所前に位置した高松城下の産土神石清尾八幡宮の祭礼に各町から奉納する行列の順序は当町から奉納する飾船が先頭であった藩内で用いる「ろう」を専売で取り扱ったろう問屋(梶原平四郎)や御用商人呉服所諏訪五兵衛らが住んでいた宝暦2年の城下図に御使者長屋が町内に置かれているまた文化年間の城下図に火の見櫓があり,藩主らの信仰にかかわる厨子などを寄進した不動庵も町内にある江戸中期以降は当町のそれまでの特権的な地位も薄らいだ明治23年からは高松市の町名となる明治30年頃には薬局1・質商1・穀物商1・酢商1・生魚商1・材木商1・料理業1が見える(繁昌懐中便覧)大正元年の戸数81世帯数・人口は,昭和15年末87・365,同19年末100・382,同20年7月戦災に遭い町は全焼し,同年末の世帯数・人口はともに0,同21年末の人口60昭和33年一部が玉藻町となり,工町・上横町・北浜町・魚屋町・内町の各一部を編入同39年一部が鶴屋町となり,内町・北浜町・魚屋町・内磨屋町・工町の各一部を編入昭和44年には一部が丸の内・玉藻町・鶴屋町となり,鶴屋町・北浜町の各一部を編入した昭和55年の世帯数369・人口803(男349・女454)...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

西暦2024年(平成36年)
420曜日
新着時事用語
リースバック(住宅)の注意点
┗リースバックとは、自宅不動産を事業者に売却して即資金化しつつ

自筆証書遺言書保管制度
┗自筆の遺言書を法務局で保管してくれる制度のこと。2018年に

アポ電詐欺・強盗
┗ 高齢者を狙った詐欺犯罪の手法。オレオレ詐欺の一種とされる場

高輪ゲートウェイ
┗JR東日本が2020年に新設する駅名。田町駅と品川駅の間、東

不用品回収
┗ 部屋の片付けや老前整理・生前整理・遺品整理等で、業者が家庭

所有者不明土地
┗ 永年相続登記(不動産の名義変更)が行われずに、登記簿上で所

遺言控除
┗ 有効な遺言書による相続となった場合、相続税の基礎控除額に上

今日を知る

今日の記念日

『逓信記念日、女子大の日』

1901(明治34)年、日本初の女子大学である日本女子大学校(現在の日本女子大学)が開学しました。

今日の暦

月齢:11

月齢:11
月名(旧歴日):十日余りの月(とおかあまりのつき)

・2024年(年/竜)
・4月(卯月/April)
・20日
・土
・Saturday
・友引

二十四節気:「穀雨<
・a>」から<
・font>1日「
立夏<
・a>」まで<
・font>15日


JLogos Now!!