宮村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。大野郡久々野【くぐの】郷のうち。枝村に一宮・新田・松崎・鳥坂【とつさか】・役田【やくでん】・洞・小瀬田組【こせだぐみ】・太武【たむ】・山下・野・中組・湯屋の12か村がある。天正14年から金森氏領,元禄5年からは幕府領。「慶長石高帳」は「一宮村」と記し,村高333石余。「元禄郷帳」580石余,「天保郷帳」819石余。「後風土記」によれば,家数230・人数1,300,産物は米1,325石余など穀類のほか,榾柮【こつとつ】(材木)2,500間・檜笠1,200・赤檮笠1,200・茸50貫目・生馬20匹・桑葉6,400貫目など。寺院に曹洞宗高山雲竜寺末神護山大幢寺,真宗東本願寺派往還寺があり,古城跡に往古広橋中納言が住したと伝える臼越古城,水無社神主家一宮氏が住したと伝える山下古城がある。東は宮峠越で山梨へ20町,西は大樽峠越で三ツ谷へ1里半,南は無数河奥村へ1里,北は石浦村へ一里半,高山へは2里。四方を深い山林に囲まれた地であるため,村民は金森氏領国のころ以来,農間企業として冬から春にかけて山に入り,榾柮を切り出し,宮川を高山へ川下しした。宮榾柮は高山町の酒造家等の需要多く,年々数千間(縦横6尺に積んだものを1間とする)を川下ししたという。安永大原騒動の折,飛騨の農民が水無神社の境内に集結,郡上藩の鉄砲隊に鎮圧された。これは昭和年間,幕府がとった一揆強圧政策に鉄砲が使用された初めての事例。明治元年飛騨県,次いで高山県,同4年筑摩【ちくま】県を経て同9年岐阜県に所属。この間同8年位山村の一部となったが,同16年分村,同22年市制町村制実施により,単独で自治体となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7347006
最終更新日:2009-03-01