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- 板屋町(近世)とは
「板屋町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 板屋町(近世) 江戸期~明治4年の町名田丸城下の1町田丸城の東,東西に通る街道に面して位置し,西は南北に流れる善兵衛川の橋で大手町と接し,東は十字路で萱【かや】町と接する町名の由来は,町家の屋根が板屋根であったことにちなむといわれる(玉城史草)田丸城下は寛永年間に本格的に整備されたが,当町もその頃に成立した戸数の変遷は,享保18年33戸(本役19・半役14),寛政年間33戸,天保2年33戸(うち本役18・半役14),明治9年24戸(田丸郷土史)小間物商大和屋・呉服商山城屋は,元和5年紀州藩領となった際に田丸城に在城することになった久野宗成を慕って遠江【とおとうみ】国から移住してきたという田丸城下は伊勢神宮参拝者の増加にともなって次第に宿場町的な様相が濃くなるが,文政・天保年間頃に当町には橋本屋と巴屋卯兵衛の2軒の宿屋があった当町の南側には,金会所と呼ばれる藩札などを扱う役所があった宝永6年2月28日,大手町から出火した火災で,当町のほとんどである32軒が焼失した(同前)鎮守は,磯石橋詰にある稲荷社で,明治41年田丸神社に合祀される明治4年廃藩置県によって田丸城下は寒川【さむかわ】村となり,当町はその一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 板屋町(近世) 江戸期~明治7年の町名福井城下のうちはじめ一乗町組,のち長者町組の1町東は片原町,西は上呉服町,南は紺屋町,北は長者町と接する町名は,板屋の居住に由来すると思われる慶長年間の御城下四ツ割図(松平文庫)にも記載される古い町並みである万治2年の城下図(同前)では1町だが,貞享2年の福井城下絵図(同前)以降は上板屋町・下板屋町の2町に分けて記載されるその場合,東西に延びる町並を二分し,東を上,西を下としている正徳3年頃の御城下惣町間数帳には「板屋町 九拾二間半,往還ヨリ片原町迄,但上下二町分,但道幅四間」と記録される明治7年町名改称時の記録では上・下合わせて戸数57同年錦中町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」