ケータイ辞書JLogosロゴ 伊東郷(中世)


静岡県>伊東市

 鎌倉期から見える郷名。伊豆国のうち。所属郡は未詳。弘長元年6月27日の日蓮書状に「伊豆の伊東かわな」とあるのが初見で,当郷に配流された日蓮を手厚くもてなした船守弥三郎夫婦への謝意が述べられている(日蓮聖人遺文/鎌遺8673)。建治元年5月8日の一谷入道女房宛の日蓮書状によると,日蓮の配流が弘長元年5月13日から約3年間であったことがわかる(日蓮聖人遺文/鎌遺11905)。なお「吾妻鏡」建仁3年6月1日条には伊東崎が見える。南北朝期に成立した「曽我物語」には当郷と河津・宇佐美の3か所をあわせて萳美【くすみ】荘と号し,本主は萳美入道寂心(工藤祐隆)とある。寂心は継女の子祐継を嫡子として当郷を譲り,嫡孫の祐親を次男として河津を譲り河津二郎と名のらせた。その後祐継が没し,その子祐経が在京している間に,祐親によって当郷が押領された。この所領紛争がのちに曽我十郎・五郎兄弟の仇討へと発展したと「曽我物語」は伝える。戦国期には,明応4年2月5日の伊勢宗瑞(北条早雲)知行充行状に「伊東七郷之内本郷村」が見え,戦功によって伊東祐遠に充行われている(伊東文書/武州古文書下)。当地が7か郷からなっていたことがわかる。また,明応4年をそれほどさかのぼらない時期と推定される10月20日の足利成氏安堵状では,当郷が万寿寺領として安堵されている(同前)。永禄9年8月6日の伊豆国西浦闕落者書立案写(大川文書/神奈川県史資料編3),天正元年3月6日の北条家闕落者召返朱印状(清水八幡宮神社文書/県史料1)などでは,逃亡した百姓の在所の1つとして当郷が見える。また,天正14年から16年には北条氏は桑原の百姓に命じて狩野山の材木を当郷まで運ばせている(森文書/県史料1)。なお,「役帳」には御馬回衆の伊東九郎三郎の所領役高として「七拾貫文 豆州 伊東之内岡」,江戸衆の古尾谷周防の所領役高として「拾八貫文 伊東内屋形」と見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7347946
最終更新日:2009-03-01




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