ケータイ辞書JLogosロゴ 内谷郷(中世)


静岡県>岡部町

 鎌倉期から見える郷名。駿河【するが】国志太郡のうち。元亨2年3月6日の前大僧正親玄譲状案(早稲田大学所蔵荻野研究室収集文書上)に「寺□(領)駿河国内谷郷」とあるのが初見で,久遠寿院領であったことが知られる。建武元年9月12日の雑訴決断所牒(前田家所蔵文書/大日料6-1)にも同院領として見え,悪党の濫妨停止と当郷を同院別当坊雑掌に引き渡すことが命じられている。その後,応永28年12月25日付足利義持御教書案(若王寺文書/信濃史料7)や応仁元年12月21日付足利義政御教書(若王子神社文書/信濃史料8)では,当郷が禅林寺若王子領となっている。戦国期の天文16年卯月2日付寿桂尼(今川氏親後室)朱印状(徳願寺文書/県史料3)によれば,当地内長慶寺方が瑞光院に安堵されている。その後,天文18年11月23日の寿桂尼寄進状(同前)では,検地による増分を加えて長慶寺方が徳願寺に新寄進されており,その後永禄7年12月18日の寿桂尼朱印状(同前)に至るまで,同地はたびたび今川氏から徳願寺に安堵されている。今川氏勢力衰退後の永禄12年3月28日には,武田氏に属した葛山氏元が当郷内10貫文の地を三輪与兵衛に充行っている(判物証文写/大日料10-2)。また,天正6年5月28日の武田勝頼判物(歓昌院文書/県史料3)では,当地内3貫文が歓昌院領として安堵されている。なお,永禄元年8月13日の今川氏真朱印状(静岡浅間神社文書/県史料3)により,当郷が浅間宮御流鏑馬郷役を負担したことが知られる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7348209
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ