ケータイ辞書JLogosロゴ 江馬荘(中世)


静岡県>伊豆長岡町

 南北朝期に見える荘園名。田方郡のうち。荘園名としては南北朝期に見えるのが初見であるが,地名としてはすでに「吾妻鏡」建久4年9月11日条に「江間殿嫡男童形此間在江間,昨日参着」と見え,北条義時の嫡男が当地に滞在したことが知られる。荘園名としては,康永4年5月25日の検校官令旨案(潮崎八百主文書/熊野那智3)に「那智山尊勝院領伊豆国江馬荘供料事」とあるのが初見。本文書と康永4年7月18日の尊勝院護摩供料送文案(潮崎八百主文書/熊野那智5)および康永4年と思われる護摩供料請取状案(同前)などによれば,当荘の領家は熊野那智大社尊勝院であったが,地頭が元弘3年から康永3年の年貢を未進したため,尊勝院の訴えにより前年暮に未済分180貫文が弁済され,残りは地頭の詫言により免除され,当荘は尊勝院主の泰済に安堵された。その後,観応2年6月25日の足利直義御教書(神田孝平氏旧蔵文書/神奈川県史資料編3)によれば,これ以前当荘内の一方は伊豆国利生塔(修禅寺)領となったが,地頭の寺岡顕忠の拒否にあい寺家に沙汰付されなかったため,足利直義が200貫の下地を来月中に修禅寺に沙汰付することを定め,さらに足利直義は同年12月2日伊豆国守護上杉能憲に御教書を発給し(妙楽寺文書/神奈川県史資料編3),当荘内の200貫の地を厳密に寺家雑掌に沙汰付するよう命じたが,観応2年12月5日の上杉能憲書下写(鳳閣寺文書/武州古文書上)では,当荘内の200貫の下地は結局寺家に沙汰付されず,伊豆国守護上杉能憲は,他の同様な高の地を割いて寺家に沙汰付するよう守護代に申し送っている。現在の伊豆長岡町大字北江間・南江間を中心とした伊豆長岡町北部に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7348358
最終更新日:2009-03-01




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