ケータイ辞書JLogosロゴ 岡部宿(近世)


静岡県>岡部町

 江戸期〜明治22年の宿名。志太郡のうち。岡部町ともいう。幕府領,寛永10年田中藩領,文化元年からは再び幕府領。村高は,寛永改高397石余,「元禄郷帳」452石余,「天保郷帳」492石余,「旧高旧領」491石余。東海道五十三次の1つで,東の丸子宿へ2里,西の藤枝宿へ1里26町。当宿は慶長5年横田村詮の岡部新宿の設立に始まるといわれる(岡部駅本陣与十郎蔵文書/駿河志料2)。町名に横町・本町・川原町,小地名に十石坂・道永・杉長・松木下・貝立坂・平治谷・廻リ沢・坂下・杭切沢・小坂・長安坂がある(駿河志料1)。宿内町並み南北13町50間余,地子免許地1万坪,問屋給米7石,継飛脚米27石余。人馬継立問屋場は2か所で当宿の本町と加宿である南隣の内谷【うつたに】村に置かれ,問屋2・年寄5・帳付11・馬指9・人足指8。1か月のうち上18日は本町,下12日は内谷で勤めたので4分6分役という。宿建人馬100人・100疋。正徳元年に定められた駄賃・人足賃銭は,丸子宿へは荷物1駄144文・乗掛荷人とも144文・軽尻馬1疋91文・人足1人70文,藤枝宿へは荷物1駄79文・乗掛荷人とも79文・軽尻馬1疋51文・人足1人39文。天保14年駄賃・人足賃銭5割増となる。天保14年の戸数は加宿ともに487,うち本陣2・脇本陣2・旅籠27,人口2,322,うち男1,157・女1,165。当宿の用水は岡部川より引き,呑水には掘井を用いた。男は往還日雇稼・薪拵,女は木綿を織った(東海道宿村大概帳)。化政期の戸数186。文化13年助郷村は31か村で,助郷村高は1万1,234石であった。寛政元年や天保7年には助郷村々と人馬の問題で争論を起こしている。文政13年の宿勤・助郷役の人足は5万2,311人。宿の東側に江戸へ48里の一里塚があった。寺社は,浄土宗専称寺・同宗誓願寺・同宗最林寺・曹洞宗専念寺・同宗福寿院・同宗永源院・同宗三星寺・若宮八幡宮・熊野権現社など。坂下から宇津ノ谷峠を経るかつての東海道は蔦の細道と呼ばれる。坂下の地蔵堂には鼻取り地蔵と称される延命地蔵像,川原町の十石坂観音堂には室町末期頃の千手観音菩薩立像がある。専称寺では「一卜火灸」という灸療法が行われ,現在も継続している。西行法師笠懸の松という境内の松は謡曲「西行・西住」にうたわれている。若宮八幡宮には神ころがしの行事が伝わる(静岡県歴史の道調査報告書―東海道―・岡部町史)。明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県に所属。明治期に入り宿駅の経営に苦しむ当宿は新しい活路を開くため枝郷に当たる廻沢と入会地をめぐって紛争を起こしている。明治9年宇津ノ谷峠の中腹に当地と宇津ノ谷を結ぶ宇津ノ谷隧道が開通し,道銭を50年間徴収することが許可された。同13年定員50の消防組の岡組を創設。明治22年岡部町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7348721
最終更新日:2009-03-01




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