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- 小沢郷(中世)とは
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小沢郷(中世) 室町期~戦国期に見える郷名相模国愛甲【あいこう】郡のうち応永7年10月日の吉見頼房所領注文に「下若宮御神領」として「相模国ニ小沢郷有」と見える(楓軒文書纂/県史資3上‐5271)「鎌倉大草紙」によると文明9年,長尾景春の乱に相呼応して金子掃部助が小沢城に2か月近く立てこもったという(群書20)また文明12年と推定される11月28日付の太田道灌書状写(松平文庫所蔵文書/埼玉県史資料編5)によれば,文明10年に金子掃部助は再度同城に立てこもったが,長尾景春の拠点小机城が落ちると間もなく落城したという現在の愛川町角田には小沢城と小沢古城の遺構があるが,この金子掃部助が立てこもった小沢城は小沢城の方と推定される(城郭大系)戦国期の「役帳」には小田原北条氏津久井衆の所領役高として「拾貫文 小沢 金子新五郎」と見え,長尾景春の乱後も小田原北条氏の支配下において金子氏は在地豪族として存続していたことがわかる永禄6年7月11日の北条氏康判物案には氏康の知行地が記載されているが,当郷の年貢については知行検見の際の不足銭の足銭にするよう定められている(紀伊続風土記附録10/県史資3下‐7333)江戸期には角田村の新田として小沢新田が見え,現在の愛川町角田を中心とするあたりに比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小沢郷(中世) 鎌倉期から見える郷名多摩郡と橘樹【たちばな】郡にまたがる小沢郷は鎌倉期には稲毛荘に属して稲毛重成の所領であったが,当郷には重成の子重政がいたらしく,重政は小沢次郎を名乗った(歴史地理)元久2年6月,重成・重政父子は畠山重忠の騒動に連坐して誅せられたしかし,同年11月3日に小沢信重という者が,重成の女(母は北条時政の女)が綾小路師季に嫁して生んだ女子を京都から呼び寄せ,北条政子の猶子としたため,当郷はこの女子の知行するところとなった(吾妻鏡)その後当郷がどう変化したか不明だが,暦応4年8月に摂津親秀が松王丸に譲与した所領のなかに小沢郷が見えている(士林證文)戦国期に至っては,小田原北条氏の家臣垪和【はが】又太郎の知行するところとなり,「役帳」によれば小沢郷は200貫文と記されている近世には菅ケ村・谷ノ口【やのくち】(矢野口)村・長沼【ながぬま】村・百村【もむら】・大丸村に分かれた(北条分限帳郡村略考・新編武蔵)これらの村々は多摩川の南岸にあたり,こうした村々の中には小沢嶺・小沢蔵屋敷という字名を残すものもあった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」