ケータイ辞書JLogosロゴ 金屋郷(中世)


静岡県>金谷町

 室町期から見える郷名。遠江【とおとうみ】国榛原【はいばら】郡のうち。長禄2年8月10日の将軍家御判御教書(集古文書/後鑑3)に「遠江国質侶庄金屋郷」とあるのが初見で,当郷が京都の清和院領として安堵されている。後に足利義稙が将軍職にあった延徳3年8月24日にも全く同内容の御教書が発せられている(同前)。一方,太田道灌の旅行記である「平安紀行」には「文明十あまり二とせのころ……かなやの駅にて」とあって,文明12年頃には東海道の宿駅となっていたことがわかる。その後も,連歌師宗長は,大永6・7年頃しばしば当地に宿泊し(宗長手記),また山科言継も,弘治2・3年に駿河【するが】に下向した行き帰りに当地を通っており(言継卿記),戦国期の宿駅としての機能を果たしている。戦国期の当郷は,清和院領であるという徴証は見出せないが,明応5年9月26日,当郷内深谷の地が今川氏親によって当国長松院に寄進されて以来,同地は永正2年8月5日に氏親から,天文6年6月9日には今川義元から,文禄3年9月21日には今川氏真から各々寺領安堵の判物を得て(長松院文書/県史料4),戦国末期まで長松院領として存続した。その間の弘治3年2月13日の今川義元判物(蓮華寺文書/県史料4)によると,当郷は年来不入の地であり,人足役などを課するのは非分とされている。また,永禄12年正月28日の徳川家康安堵判物(朝比奈文書/家康文書上)によると,永禄12年までは当郷内に今川家の家臣鶴見佐渡守の知行地が存在したことがわかるが,家康が前年から当国に侵入して今川氏真を攻めた際に,同地は家康に帰順した朝比奈十左衛門尉らに給付された。その後,天正16年5月20日の徳川家康伝馬朱印状(加藤文書/県史料4)によると,当郷には,当時家康が在城していた駿府までの伝馬1匹が課せられている。なお,この文書は「金谷」と記した初見史料。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7349060
最終更新日:2009-03-01




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