ケータイ辞書JLogosロゴ 金谷宿(近世)


静岡県>金谷町

 江戸期〜明治22年の宿名。榛原郡のうち。「天保郷帳」には「古は金谷町」と見える。幕府領,慶長14年駿府藩領,元和5年幕府領,寛永2年駿府藩領を経て,同9年からは幕府領となる。寛永6年の検地では反別118町5反余,分米724石余,ほかに御伝馬屋敷地子免除分34石余があった。村高は,「元禄高帳」828石余,「天保郷帳」852石余,「旧高旧領」875石余。享和年間の家数502・人口2,023(金谷宿記録)。東海道五十三次の1宿で,東の島田宿へ1里,西の日坂宿へ1里24町。金谷河原町を加宿とした。金谷河原町は江戸初期まで当宿の枝村であったがのちに分村。加宿と併せて,宿内町並みは東西16町24間,人数4,271・家数1,004(うち本陣3・脇本陣1・旅籠屋51)。地子免許地は当宿1万5,300坪・金谷河原町1万215坪。正徳元年の駄賃・人足賃銭は,島田宿までは荷物1駄124文・乗掛荷人とも124文・軽尻馬1匹77文・人足1人58文,日坂宿まではそれぞれ148文・148文・94文・71文(東海道宿村大概帳)。天保10年の定めによると宿建人馬は人足155人5分・馬100匹で,うち当宿の人足42人・馬100匹,金谷河原町の人足113人5分。島田宿とともに規模が大きいのは大井川歩行越えと日坂宿に至る峠越えのためといわれる。当宿には紀伊藩の御七里継飛脚小屋が置かれた。享保15年の大火では当宿と金谷河原町をあわせて517軒が焼失(金谷町誌稿)。宿内は新町・上本町・本町・二軒屋・藪屋町・中町・市ケ島町・十五軒町・横町・田町・根岸・八軒屋などの小地区に分かれる(遠淡海地志)。寺院は曹洞宗大覚寺・同宗洞善院・同宗利生寺など(風土記伝)。ウグイ・ハヤ・ウナギ・ナマズ・フナ・モロコが獲れるという。徳川家康の愛妾阿茶の局は当地の出身(徳川実紀)。また,崋山十哲の1人で医王寺薬師堂の天井絵などを描いた永村茜山は,晩年当宿の永村金左衛門の養子となり組頭を勤めた。明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県,浜松県を経て同9年再び静岡県に所属。明治22年金谷町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7349061
最終更新日:2009-03-01




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