ケータイ辞書JLogosロゴ 河村荘(中世)


静岡県>菊川町

平安末期から見える荘園名遠江【とおとうみ】国城東【きとう】(城飼【きこう】)郡のうち「賀茂社古代庄園御厨」によると,白河上皇が寛治4年7月13日に賀茂御祖社に寄進した28か所荘園・御厨の1つとして当荘が見え,公田数30町とされている(広島県史古代中世資料編1)ついで嘉応2年のものと推定される年月日不詳の官宣旨案(民経記裏文書/平遺補357)によると,故九条民部卿家が遠江国知行国主のとき,当荘を松尾社に寄進し,所当地利が同社の毎日御供に充てられたが,その後当荘が新日吉社に寄進されたため,御供が滞るようになったそこで松尾社は朝廷に訴え,当荘の替地として池田荘(遠江国磐田郡)が寄進されるに至ったこのように平安期には賀茂御祖社・松尾社・新日吉社の3社が当荘に権利を有しているが,3社の関係は未詳鎌倉期になると当荘には地頭が設置された「吾妻鏡」建久2年12月23日条に,当荘の開発領主と思われる三郎高政なる者が北条時政に当荘を寄進しているこれは地頭職の寄進であったらしく,正応2年7月9日の関東下知状(秋田藩採集文書/神奈川県史資料編2)によると,河村荘東方の地頭は相模左近大夫将監(北条師時)であったなお,ここに見える河村荘東方は現在大字名として残る西方に対する東方とみられ,当荘が鎌倉期から東・西両方に二分されていたことが窺われる南北朝・室町期の当荘の動向は不明であるが,戦国期になると再び賀茂御祖社領として史料に現れる「親長卿記」文明15年5月20日条によれば,下賀茂社(賀茂御祖社)摂社の河合社禰宜鴨祐長に当荘の知行が認められており,その後,(長享2年)3月18日の伝奏奉書(親長卿記別記)によれば当荘が祐長の遺跡として同社摂社の比良木社新権祝祐平に安堵されている延徳2年2月18日付後土御門天皇綸旨案(宣胤卿記)には「故海住山大納言家領遠江国河村庄」と見え,勧修寺流の海住山高清が同時期に当荘を知行しているおそらく海住山家は領家職などの所職を有していたのであろう戦国大名今川氏の遠江進出後は,今川氏被官で堀内城(現菊川町大字堀之内)に拠った堀内氏が当地を支配したと思われる(堀内系図/大日料9‐33)さらに徳川氏の遠江入部後の永禄12年正月20日付徳川家康判物写(歴代古案/家康文書上)では,「河村之内〈犬間・吉沢〉」が大村弥十郎に充行われている荘域は現在の菊川町中・北部一帯に比定されるなお,現大字加茂には京都の賀茂社を勧請した加茂社があり,付近には本所・半済・西方・公文名などの荘園関係地名が多数残存するまた,文永2年2月7日の遠江国三代起請地并三社領注文写(教王護国寺文書1)に「賀茂庄 下賀茂」と見える賀茂御祖社領賀茂荘も同じく大字加茂付近に比定される可能性があり,賀茂荘は河村荘の別称とも考えられる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7349419
最終更新日:2009-03-01




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