ケータイ辞書JLogosロゴ 気賀荘(中世)


静岡県>細江町

 鎌倉期に見える荘園名。遠江【とおとうみ】国引佐郡のうち。安貞2年8月5日の七条院(藤原殖子)処分目録案(東寺百合文書/鎌遺3772)に「遠江国 気賀庄」と見えるのが初見。当荘は七条院領であったが,安貞2年脩明門院に伝領され,さらにその後,亀山天皇に譲られたことがわかる。年月日未詳であるが,鎌倉期のものと推定される院宣案(高山寺古文書)に「遠江国気賀庄事,靡□政所雖被譲,雖進新陽□(明カ)院有子細悔返之」とあり,当荘は亀山天皇から同天皇の女御である新陽明門院に伝領されたが,子細があって再び天皇領となったことが知られる。また年月日未詳であるが,鎌倉期のものと推定される某書状(同前)に「気賀庄事,可仰□関東御教書,不可□有吉之様ニ被申候」とあり,某書状案(同前)にも「抑気賀庄内宮役夫工米事,先日御教書被遣祭主之処」と見える。さらに年月未詳であるが,鎌倉期のものと推定される□月21日の某御教書(同前)によれば,当荘の地頭が代官を追い出し,濫妨をはたらいたことがわかる。また嘉元3年4月10日の年紀を有する長楽寺鐘銘(日本古鐘銘集成)に「遠江国引佐郡気賀庄 長楽寺」と見える。梵篋院奥書(金沢文庫古文書12)に「于時元徳二年閏六月五日,於遠州伊那佐郡気賀庄長楽寺東谷知足庵,為仏法興隆令書写畢,金剛仏子永憲〈生年五七〉」とあり,元徳2年閏6月5日に当時57歳であった永憲が当荘内の長楽寺知足庵でこの梵篋院を書写したことが知られ,永憲は建武2年7月12日にも知足庵で御在唐記を書写している(金沢文庫古文書10)。現在の浜名湖の北東部にある引佐細江の北岸,都田川右岸の細江町大字気賀・広岡・小野がその荘域に入るものと思われる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7349475
最終更新日:2009-03-01




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