ケータイ辞書JLogosロゴ 白須賀宿(近世)


静岡県>湖西市

 江戸期〜明治22年の宿名。浜名郡のうち。白須賀町ともいう。江戸初期には白須賀村ともいった(蔵法寺文書/県史料5)。幕府領。高は「元禄高帳」954石余,うち伝馬屋敷の地子高28石余は免許,「天保郷帳」1,139石余,「旧高旧領」1,113石余。「風土記伝」によれば,寺社に曹洞宗蔵法寺・同宗西光寺・長松庵・慶雲院・礼雲庵・神明社・八幡社がある。ほかに「遠淡海地志」では一向宗潮見寺・法花宗妙泰寺・薬師堂・観音堂・稲荷社がある。また小地名に永屋(長谷)・元白須賀(元宿)・塩(潮)見坂が見える。漁師は200戸。当宿は東海道五十三次の1つで,東の新居宿へ1里24町,西の二川宿(現愛知県)へ1里17町。宿場はもと海岸部(現湖西市大字白須賀字元町付近)にあったが,宝永4年津波にあい,潮見坂上の台地に移転(静岡県歴史の道調査報告書―東海道―)。慶長7年6月10日の駄賃定書(新居町役場文書/県史料5)に,「新居より白須加まて荷物壱駄四拾貫目ニ付ひた(鐚)銭廿四文」と見えるのは,移転以前の当宿から新居宿までの駄賃。当宿の町筋は東西10町で,町名には東町・橋町・東中町・西中町・高見町・西町があり家数は300軒余。ほかに裏町の家数は30軒余。長谷の家数は100軒余,元宿の家数は80軒余。安永2年の大火事によって宿伝馬・問屋のある西部の高見町から東部の伝馬・橋・東の各町が焼きつくされ,罹災戸数は200余戸にのぼった(湖西近代百年史年表)。享和元年大雨のためカジガ谷は山崩れをおこし銅鐸2個が出土した(同前)。当宿の定助郷は享保8年には7か村であったが,同10年には8か村,天明6年には18か村が追加されて,33か村,惣高9,355石余にのぼった(静岡県歴史の道調査報告書―東海道―)。「東海道宿村大概帳」によれば,宿内の町並みは東西14町余,地子免許地は8,560坪。加宿境宿新田を含めた天保14年の家数613・人数2,704。宿内には本陣1・脇本陣1・旅籠屋27・郷蔵3。宿建人馬は100人・100疋。また宿内両側の家並みのほかは百姓屋で,田より畑の方が多い。農業のほか旅籠屋・茶店などの商売を行う。農間に男は往還稼・漁猟を行い,女は麻・木綿を織る。字猿ケ番場(境宿新田)では名物柏餅を売り,世に猿ケ番場の柏餅というとある。元治元年の戸数345(静岡県歴史の道調査報告書―東海道―)。また笠子学園は天正年間に長坂丹後守が創設したもので,慶長5年徳川家康が会津出兵の際に立ち寄りその学風を奨励したという(静岡県浜名郡誌)。明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県,浜松県を経て同9年再び静岡県に所属。明治6年伝馬町潮見寺を校舎として白須賀学校が創設され,同8年元町学校を経て,同21年白須賀尋常小学校となる(湖西の文化)。明治22年白須賀町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7350642
最終更新日:2009-03-01




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