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- 研屋町(近世~近代)とは
「研屋町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 研屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治5~22年は静岡を冠称江戸期は駿府城下96か町の1つ明治22年からは静岡市の町名駿府城の南西に位置する町名は慶長年間徳川家康とともに伏見か...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7351464]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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研屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は倉吉陣屋町の1町陣屋町の北部,玉川の沿岸に位置し,南は玉川を越えて魚町,東は上横町・下横町,西は下新町と接する町名の由来は,刀剣の研師が集住していたことにちなむ寛延年間の倉吉御陣屋図の竈数は下新町も当町分に含めて35軒,明治初年の戸数56・人口192(県戸口帳)寺は寛永5年開基の浄土宗随縁山光明寺がある元禄8年・寛延3年の2度の大火にあう明治2年,版籍奉還に先立って藩治組織が改められた際,倉吉市政所が光明寺門前に置かれた明治22年倉吉町,昭和28年からは倉吉市に所属市政所の置かれた場所に大正14年倉吉町役場が設置され,昭和27年堺町2丁目へ移転したその隣には倉吉警察署が設置され,大正12年まで存続した世帯数・人口は,昭和35年69・253,同55年47・124 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」