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- 中新田村(近世)とは
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![]() | 中新田村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中新田村(近世) 江戸期~明治8年の村名諏訪郡のうち八ケ岳連峰中の阿弥陀岳西方に位置する大門道が通じ,北西に一ノ瀬堰,矢ノロ川,阿久川が流れる縄文時代の遺跡は追分沢・二枚田,平安期の遺跡は古屋敷・梨ノ木沢などがある高島藩領開発は,慶長15年高島藩初代藩主諏訪頼水により,頼水の開発免許状・開発定書が下されている(県史近世史料3)見立役人は頼水の弟頼雄,草分人は諸説あるが,寛文8年の口上書によると篠原八右衛門・小林庄兵衛・伊藤嘉兵衛の3名草分人たちは武田信玄の金山採掘人,青柳金沢山から移住してきたと伝えるなお開発当初は原山新田と称したが,元和7年南方に瀬沢新田,寛永7年北方に山田新田が開発されたため,その中間に位置することから中新田村と改称した(原村誌)村高は,「元禄郷帳」778石余,「天保郷帳」606石余,「旧高旧領」615石余安永6年室内新田村を分村当村は慶長15年の藩主からの開発文書によって権利を主張し,諸役免許・水利・入会山草場出入など,関係諸村に対し主導権をもっていたなお開発当時の中心地は現在の区役所下方,古屋敷地名の周辺とみられ,開発以前にも人の住んだ事があるという北西には臨済宗深叢寺がある開発直後の元和4年に造立され,のち2代藩主忠恒により御射山深叢寺と改称鎮守社には藩主頼水を祀り,昭和15年に見立奉行であった頼雄を合祀した明治4年高島県を経て筑摩県に所属同8年原村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中新田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中新田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中新田村(近世) 江戸期~明治9年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中新田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中新田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」