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南条(中世) 鎌倉期~戦国期に見える条名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
南条(中世) 鎌倉期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
南条(中世) 鎌倉期から見える地名巨摩【こま】郡のうち大井荘南条ともいう大月市七保町花井寺所蔵の紙本墨書大般若経の奥書に「甲斐国大井庄南条内黒沢村久治名造立畢,徳治二年大才丁未正月廿七日」などと見えるのが初見(増穂町誌)下って,戦国期,天正10年3月,平安末期から甲斐に君臨した武田一族は滅び,甲斐は織田氏領となるが,織田信長が6月,本能寺に討たれると,武田氏旧領のほとんどは,徳川家康の支配に入る天正10年8月22日の徳川家印判状写によれば「西郡南条之内壱貫五百文」ほか計17貫が筒井菅右衛門の本領として充行われ,同年12月9日にも改めて安堵された(旧唐柏村森右衛門所蔵文書/甲州古文書2)次に,同年9月7日には,大木初千代に地内の5貫文が安堵され,翌天正11年閏1月14日に再安堵された(記録御用所本古文書/甲州古文書3)次に,天正10年11月7日には落合惣兵衛信吉に「南条之内道場分弐拾貫文」が(同前),同月8日には金丸門右衛門尉に地内の夫銭が(金丸利八家文書/甲州古文書2),同年12月5日には,町田作之丞に地内小林分2貫300文が安堵された(旧落合村儀右衛門所蔵文書/同前)さらに,翌天正11年4月26日には,南明寺(現増穂町小林)領として「南条内四貫文」が安堵された(南明寺文書/甲州古文書2)当地の遺称地は現在ないが,大井荘が機能していた時期は荘の南部,すなわち現在の増穂町南部および鰍沢【かじかざわ】町・市川大門町の一部を含む地域であったと考えられるが,戦国期は増穂町の西南部を南条と称したと思われる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
南条(中世) 南北朝期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」