ケータイ辞書JLogosロゴ 原田荘(中世)


静岡県>掛川市

 鎌倉期から見える荘園名。佐野郡のうち。弘長3年正月の原田荘正検取帳目録案(東寺百合文書/鎌遺8918)に,「原田御庄 細谷村 注進弘長二年正検取帳目録事」とあるのが初見。文永2年2月7日の遠江国三代起請地并三社領注文写(教王護国寺文書1)には,三代起請地として「原田庄 宝金剛院」と見えるので,この頃当荘は宝金剛院領であったのであろう。しかし,その後の史料では最勝光院領となっている。永仁3年9月9日の関東下知状(東寺文書/荘園志料下)によれば,当荘の本家は最勝光院,領家は随心院僧正坊跡,地頭は原氏であった。この頃領家職をめぐる訴訟が起き,それに乗じて地頭が本家年貢を対捍したため,最勝光院が地頭を訴えている。訴訟の結果本家職・領家職分について下地中分が行われ,当荘のうち本郷以下は領家に,細谷郷は本家に付けられた。これにより本家最勝光院は本郷以下に対する権利を失ったが,細谷郷については本家職・領家職の一円支配を獲得するに至った。この下地中分は地頭職を除外しているので,その後も当荘の地頭職は原氏が伝領している。以後の当荘関係史料は細谷郷に関するものがほとんどで,本郷以下については明らかではない。地頭による本家年貢の未進はその後も続き,元徳3年12月27日の関東下知状(東寺文書/鎌倉幕府裁許状集上)では,本家と細谷郷地頭原忠益の間で所務和与が行われ,年貢は弘長3年の目録所載の田数にしたがって段別200文と定められた。前掲弘長3年の目録によれば,細谷村(郷)の田数は47町7反中で,うち見作田は37町4反4丈(除田6町8反3丈中,定得田30町6反中)であった。正中2年3月の最勝光院領年貢進済注文(宮内庁書陵部所蔵文書)によれば当荘の本年貢は450石であったが,近年沙汰分は45貫文となっている。最勝光院は建春門院の創建で,同院の没後,後鳥羽・後堀河・後嵯峨・亀山・後宇多・後醍醐天皇と伝領されたが,正中3年後醍醐天皇は最勝光院を東寺に寄進したため,以後当荘細谷郷は東寺領となった(東寺百合文書,正中3年3月19日太政官牒)。建武2年10月23日の雑訴決断所牒(東寺文書/大日料6-2)にも,正中2年の注文に近年沙汰分として見えるのと同じく,「為本家役毎年四拾五貫文」とあり,45貫文が寺家に納められる年貢の基準額となったようである。南北朝期に入っても地頭の年貢未進は継続するが,寺家は一定額の年貢を確保するため,雑掌支配から所務代官職の請負制へと支配方式を改めていった。貞治2年2月4日の大森師益請文(東寺百合文書)では,師益は総年貢49貫100文のうち,守護の半済分を除く24貫510文を寺家に進納するという条件で,細谷郷所務職を請け負っている。以後,明徳元年には観応寺少納言が,応永13年には真如寺正脈院圭蜜禅師,応永20年には織田主計浄祐,永享7年には観喜寺慶郎蔵主禅師,至徳元年には甲斐氏の家人高木次郎がそれぞれ約20貫文で細谷郷所務代官職を請け負っている(東寺百合文書)。請負代官制による東寺の年貢は室町期までは維持されたが,戦国期になると荘園としての実質は失われるに至ったとみられる。なお,文亀3年5月の居尻観音堂旧蔵鰐口銘に「遠州佐夜郡原田庄大悲山顕光寺」と見える。現在の掛川市大字細谷・本郷を中心とする一帯に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7352387
最終更新日:2009-03-01




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