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- 松山保(中世)とは
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松山保(中世) 南北朝期~戦国期に見える保名越後国頸城【くびき】郡のうち鎌倉期には北条氏一族の所領建武4年卯月21日付足利尊氏袖判下文には「越後国松山保〈右馬権頭義時跡〉」とあり,幕府滅亡後,当保地頭職は仁木義有に与えられた(仁木文書)その後,室町幕府の政所執事伊勢氏の一族伊勢盛種の所領となったが,文亀2年,越後守護上杉氏の被官長尾輔景が当保代官職を競望して保内に入部,伊勢氏は幕府に訴えて直務支配を試みたものの,知行は回復せず(内閣朽木古文書,公方様御内書御案文/越佐史料),永正6年12月にも不知行となった「伊勢八郎左衛門尉盛正知行分,越後国松山保」の伊勢氏への還付が命じられている(御内書案/越佐史料)松山の地は古くから温泉地として知られた文亀3年頃,守護上杉房能は定実を養子として娘に配したが,同年と推定される8月9日付黒田良忠書状によればこの娘は療病のため「松山へ御湯治」している(反町中条文書)また,越後府中・春日山と関東を結ぶ街道上にあり,房能が守護代長尾為景に追われて関東に逃れようとして果たさず自刃したのは「松山之入あまみそ」であった(志賀槙太郎所蔵文書)元亀2年5月20日付上杉謙信書状にも「春日山を打立,松山を直,以夜継日至于塩沢」とあり(松平義行所蔵文書/越佐史料),戦国盛期でも越後と関東を結ぶ要路であった天文9年6月18日付長尾景重書状によると信州の市川衆が進出して「松山四籠之よふかい(要害)」を占拠したこともある(別本歴代古案/同前)松山の地名は謡曲「松山鏡」の舞台ともなって,都にも知られていた松山保の範囲は不明であるが,現在の松之山町天水越や松代町莇平が松山に属したことは中世史料に確認でき,両町域にわたったものとみられる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」