ケータイ辞書JLogosロゴ 赤池村(中世)


愛知県>稲沢市

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。尾張国中島郡のうち。弘安5年7月日付尾張国千代氏荘坪付注進状案に「中島郡北条河崎郷赤池村」と見え,友重名畠があった(醍醐寺文書/稲沢市史資料編7)。貞治2年8月12日付足利義詮寄進状に「同(尾張)国赤池郷」とあり,当郷半分の替わりに丹羽郡鴾栗【かちぐり】上下御厨・伊奈波蔵人女子跡が石清水八幡宮に寄進された(石清水八幡宮菊大路家文書/同前)。「康正二年造内裏段銭并国役引付」に「四貫六十七文……三浦平四郎殿〈尾張国中島郡内赤池段銭〉」と見える(群書28)。天正11年8月27日織田信雄は熱田社大工岡部又右衛門に「赤池之郷」を宛行った(張州雑志)。また,「信雄分限帳」には「赤地(池)上下両郷」とあり,同13年頃には信雄家臣今川源三郎の知行地300貫文があった。鎌倉末期〜南北朝初期に成立したとみられる慈光寺本「承久記」によれば,承久の乱の際,東海道コースをとった北条時房軍は,熱田の宮から「赤池ノ宿」を経,一宮を通って京へ攻め上った。また,建長4年宗尊親王が「あかいけ」から萱津を通過して鎌倉へ下向したように(吾妻鏡),中世には鎌倉街道が通っていた。なお,南北朝期の「神鳳鈔」に伊勢神宮領として「赤地(ママ)〈畠二丁〉」とあるのも,当地であろう。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7353990
最終更新日:2009-03-01




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