ケータイ辞書JLogosロゴ 赤津村(近世)


愛知県>瀬戸市

 江戸期〜明治22年の村名。尾張国春日井郡のうち。尾張藩領。水野代官所支配。村高は,「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに806石余,「旧高旧領」1,110石余。「寛文覚書」によれば,概高1,056石余,うち20石が竈屋仁兵衛・理右衛門分,反別は田52町余・畑8町余,見取新田の田畑3町余,野方1町,屋敷地8反余(竈屋10人の居屋敷として除地),松山・櫟山・柴山・もや山が1,105町余,御林山20町,雨池11か所,棚井9か所,家数170・人数675,馬12,焼物竈数7。「徇行記」によれば,蔵入地1,056石余,うち証文引高7石余・前々引高239石余・10口年数引152石余・竈屋分20石で残高637石余,家数229・人数974,馬57,陶工15戸・竈数8口。弘化2年の家数は,西窯島20・大空島23・小空島28・横町島19・山路島4・中畑島18。古くから赤津焼の名で知られ,陶器法を伝えた加藤唐四郎の宅跡は当村にあった。古窯の数も39と瀬戸村よりも多い。天文年間から陶工たちが離村したことにより一時衰退したが,慶長15年藩主徳川義直が美濃国の郷ノ木という所にいた竈屋たちを呼び寄せ,再び焼物の村となった。慶安3年には仁兵衛・藤三郎に概高20石余が与えられ,その後竈屋3人に年々金3両が与えられたこともあった。宝永4年の地震により多くの竈が破壊されたが藩の保護で立ち直ったという。保護を受けた反面,窯株制,一子相続の制や永代轆轤一挺の制などにより統制を受け,享和2年には御蔵会所が設けられて販売の自由も奪われた。一方九州産の磁器が市場に出まわると瀬戸物は売れなくなり,文化元年加藤民吉を九州に送って磁器の製法を修得させ,染付磁器が製造されるようになってからは再び隆盛を見た。従来の摺鉢・瓶・甕・鉢などの焼物を本業焼,磁器を新製焼とよぶ。神社は,式内社の八王子社,八幡2社・神明社・白山社・赤童子社・山神4社。寺院は,真宗高田派万徳寺・曹洞宗雲興寺,万徳寺の塔頭に宝如坊・善知坊,雲興寺の塔頭に大愚軒,ほかに観音堂があり,雲興寺は曹洞宗の中本寺格,寺領139石余を三州本徳村に有した。明治12年の戸数244・人口1,271。同13年東春日井郡に所属。同22年市制町村制施行による赤津村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354015
最終更新日:2009-03-01




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