ケータイ辞書JLogosロゴ 赤見村(中世)


愛知県>一宮市

 南北朝期に見える村名。尾張国丹羽郡のうち。国衙領。文和2年7月日の尾張国郷保地頭正税弁済所々注進状案に「赤見村 六貫七百文」と見え,奥田兵庫入道が地頭であった(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。また同年8月23日の尾張国諸郷保以下年貢并料足用途注文にも,「赤見村 五百文〈八月十九日〉」と見える(同前)。なお,室町期応永6年尾張国国衙正税未進注文には「弐貫百文 赤見保未進」とあり,管領畠山基国の知行地となっている。同9年5月28日の尾張国目代守光注進状に「赤見保 給人二宮与一」とあり,同10年8月13日の尾張国国衙領守護方押領注文にも「赤見保 給人二宮与一方」と記されている(同前)。小牧・長久手の戦の末期天正12年9月1日の羽柴秀吉書状には,「奈良,赤見其外無残所令放火候」とあり,赤見・奈良一帯に放火し,一宮城から出撃した兵100余人を討ち捕えたと記されている(山田覚蔵氏所蔵文書/一宮市史資料編6)。これに対する徳川方は,同年10月16日の徳川秀忠朱印状写に「赤見在城之事,右扶持方五百人」とあるように,西郷家員を赤見城に入れ守備にあたらせている(内閣文庫記録御用所本古文書/同前)。同18年8月吉祥日の神明社棟札銘写に「丹羽郡赤見村大工藤原朝臣嘉七郎」と見える(神明社史料/同前)。近世の大赤見村あたりと思われる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354047
最終更新日:2009-03-01




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