ケータイ辞書JLogosロゴ 英比郷(中世)


愛知県>阿久比町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。知多郡のうち。文永2年12月7日の将軍家政所下文案によると「尾張国英比郷内小河村一宮住人」の雅継源法師覚妙が父の地頭職相伝を承認されている(塩尻7/鎌遺9430)。鎌倉後期と思われる源胤雅言上状によれば,「尾張国英比郷内本領乙河村地頭職」をめぐり雅継法師子息胤雅と少将律師の間で相論となっている(金沢文庫本斉民要術巻9裏文書/神奈川県史資料編1)。南北朝期には尾張国衙領となったが,文和2年7月20日の尾張国国衙領英比郷文書案および同英比郷熱田宮司濫妨条々事書案によると,熱田大宮司忠広が「尾張国々衙領英比郷北方」に対して講衆・家人・神人とよばれる配下の者を放ち入れ,百姓を拘禁し民屋を追捕している。このような熱田大宮司家の私権の発動に対し,同年7月21日の足利義詮御教書案により幕府も忠広の行動を戒めている(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。しかし,翌文和3年4月23日の熱田権宮司家領注進状案には「一智多郡……芙北(英比)郷 田畠(弐脱カ)拾弐町内〈北方十町国ケ(衙)分・校山寺方四町・南方八町社家分〉」と見え,3つの地域に分かれて熱田権宮司家領に組み込まれていた(宝庫文書/熱田神宮文書)。一方,同4年5月4日の後光厳天皇綸旨では当郷は尾張国衙に付されており,めまぐるしく領主が変転している(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。おそらく郷内に複雑な土地権益を有したためであろう。貞治5年4月11日の後光厳天皇綸旨にも「尾張国英比郷」が見え,洞院公定が知行している(西園寺家文書/宮内庁書陵部所蔵文書5)。また,明徳2年5月12日の細川頼元施行状案および同年5月13日の一色詮範遵行状案によると英比郷内には熱田社座主領があり,醍醐寺理性院が知行している(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。応永4年正月日の尾張国目代光守注進状には「三百九十貫文 英比郷分〈二百貫文熱田御寄進 百九十貫文日野按察大納言御知行〉」と見え,同年12月5日の尾張国在庁等注進状にも「一,百二貫七百十一文 英比郷〈日野安室(察)殿〉御領」と見えるところから土御門保光も郷内の権益を握っていたが,同6年の尾張国国衙正税未進注文に「拾貫文 英比郷〈一向無沙汰 日野安察殿御知行〉」と見え,国衙領としては有名無実となっていた(同前)。同19年11月日の熱田社祠官供僧等言上状によると,建武年間に足利尊氏によって熱田社に寄進された当郷は応永年間に至って智恩院隆秀に押領されるようになっていた(京都御所東山御文庫記録/大日料7‐17)。「建内記」嘉吉元年10月2日条によると,敷政門院源幸子にも「尾張国英比郷」が与えられている(古記録)。「看聞御記」嘉吉3年3月26日条・7月5日条によると,洞院公数の所領であった「英比郷」に段銭が懸けられたため,守護一色氏に免除要求が出され実現した(続群補4)。長禄2年5月30日の後花園天皇綸旨によると当郷は但馬国太多御厨と替えられたため,洞院家の手を離れた(西園寺家文書/宮内庁書陵部所蔵文書5)。永禄12年12月吉日の経聞坊良雄檀那等譲状に「檀那所智多郡あくい大坊」が見え,白山中宮美濃長滝寺経聞坊配下の先達として合計9か所に及ぶ檀那在所をもっていた(経聞坊文書/大日料10‐3)。「信雄分限帳」には「⊏⊐(一,千五百貫)文 知多郡あく井 長田弥左衛門」と見える。なお文永11年9月11日の平楽寺蔵の観音像銘に「英比津岡郷」の住人が願主となって造立していることが見えるほか(造像銘記集成),明徳元年〜応永3年に書写された如意寺大般若経321巻奥書に「英比郷矢口極楽寺住侶 恵聖□□□」と見える(知多市誌資料編2)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354059
最終更新日:2009-03-01




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