ケータイ辞書JLogosロゴ 浅野保(中世)


愛知県>一宮市

 南北朝期〜室町期に見える保名。丹羽郡のうち。文和2年7月日の尾張国郷保地頭正税弁済所々注進状案に「浅野保 十五貫文 北野」とあり,京都北野社が地頭職をもつ国衙領であった(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。同年8月23日の尾張国諸郷保以下年貢并料足用途注文に,「浅野保五百文〈八月十九日〉」とある(同前)。応永4年正月日の尾張国目代光守注進状には「九貫五百文下浅野 北野御領」とあり(同前),また同年12月5日の尾張国在庁等注進状にも「下浅野 北野御神領」とあって(同前),この頃には上中下の3か保に分かれるとともに,上浅野保・中浅野保は北野社の知行下を離れたらしい。同6年の尾張国国衙正税未進注文に「四百二十四文 中浅野未進〈同(管領畠山基国)御知行〉」「百文 上浅野未進〈浅野惣領〉」とある(同前)。応永9年5月28日の尾張国目代光守注進状には,「中浅野 給人飯野」「上浅野 給人白江」とあり(同前),同10年8月13日の尾張国国衙領守護方押領注文には「中浅野 給人飯野方」「上浅野 給人長井方」とあって(同前),守護方に押領されている。これ以後上浅野保・中浅野保の所見はない。同23年11月10日の法印禅順譲状写によれば,北野社法印禅順は下浅野保地頭職を権上座禅珍に譲渡している(北野天満宮史料古文書)。永享5年5月18日の足利義教御判御教書写には「北野宮寺領……尾張国浅野等奉行職事,密乗院慶雅全領知」とあって,当保の奉行職が慶雅に安堵されている(北野神社文書/一宮市史資料編補遺2)。嘉吉3年11月22日守護代織田久広遵行状写には,「下浅野保外宮仮殿段銭事,可止催促」とあり,翌文安元年閏6月23日の守護代織田久広遵行状写によれば「北野社領当国下浅野郷」造内裏料段銭は京済とし国での催促停止を命じている(同前)。文安元年5月15日の社領注進状には「尾張国下浅野保 百貫文」とある(同前)。「康正二年造内裏段銭并国役引付」には,「壱貫六百文……北野社領〈尾張国下浅野保段銭〉」とあり,1貫600文を納入している(群書28)。なお,明応6年6月吉日年記をもつ禅林寺蔵薬師如来像修理銘に「尾張州丹羽郡下麻野極楽寺」と見える(禅林寺史料/一宮市史資料編6)。現一宮市浅野・千秋町浅野羽根あたりかと思われる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354096
最終更新日:2009-03-01




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