ケータイ辞書JLogosロゴ 朝宮保(中世)


愛知県>一宮市

 鎌倉期〜戦国期に見える保名。尾張国中島郡のうち。嘉暦2年2月24日の帰覚譲状に,「一所壱町九段小 朝宮保内〈藤三郎入道名〉一所壱町伍段小 同保内〈河原藤内名〉」と見え,当保内の畠地3町4反大が高階宗房に譲渡されている(妙興寺文書/一宮市史資料編5)。貞和5年3月10日の覚乗寄進状には「尾張国中島郡朝宮保内畠地事,合参町肆段大者」と見え,報恩寺(妙興寺)に寄進されている(同前)。観応2年6月日の荒尾宗顕売券・同寄進状に「朝宮保内畠地事,合参町者,一所弐町参段 阿古江名,一所柒段 孫次郎名」とあり,報恩寺に売寄進されている(同前)。文和2年7月日の尾張国郷保地頭正税弁済所々注進状案には,「朝宮保 十貫二百廿文 同人(荒尾宗顕)」とあって,地頭荒尾宗顕が10貫220文の正税を弁済している(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。文和2年10月3日の荒尾宗顕・同泰隆寄進分妙興寺坪付注文案,貞治4年12月21日の荒尾泰隆売券・同寄進状,応安5年12月日および同6年閏10月27日の荒尾泰隆寄進状などによると,荒尾宗顕・泰隆父子は当保内の多くの田畠を報恩妙興寺へ売寄進しており,嘉慶2年8月13日の荒尾泰隆寄進分妙興寺領坪付注文案によれば,実に当保のうち12町8反半が寺領となっている(妙興寺文書/同前資料編5)。年月日未詳の妙興寺并末寺寺領目録には「朝宮〈国衙正税有〉」と見える(同前)。しかし室町期に入ると,応永6年の尾張国国衙正税未進注文に「参百五十文 朝宮未進 同(管領畠山基国)御知行」とあり,同9年5月18日の尾張国目代光守注進状には守護斯波義重方が違乱している所々の1つとして「朝宮〈但御年貢少事沙汰之〉同人(給人石河)」が記され,守護方の支配が当保にも及んでいる(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。当保は長享元年頃まで妙興寺領坪付注文に記載されているものの,寺領支配の実態は不明である(妙興寺文書/同前資料編5)。年月日未詳の某書状草案に,「妙興寺領花井・朝宮・矢合・鈴置・吉松,此五ケ処,材岩之時被召置候」と見え,材岩(西厳,織田良信か)の時に没収された当保などを返還するよう妙興寺衆徒が要求している(同前)。なお,文明16年11月1日の如光弟子帳によれば,「朝宮」に馬寄普光寺の末道場があった(上宮寺文書/一宮市史資料編6)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354117
最終更新日:2009-03-01




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