ケータイ辞書JLogosロゴ 足助荘(中世)


愛知県>足助町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。三河国加茂郡のうち。巴川上流の山間地域で現在の東加茂郡下山村・足助町・旭町と旧松平町(現豊田市),および北設楽【きたしたら】郡の北部を荘域とした。知立【ちりゆう】市遍照院所蔵大般若経(旧猿投神社本)巻322の識語に「同年〈改元応長〉六月四日,以仁井寺本,於足助庄政所,校合之」,同巻458識語に「応長元年〈辛亥〉七月四日,於足助庄西政所,校合之」とある(豊田市史6)。嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書/鎌遺22661)に見える高橋新荘と同一との説もあるが,史料上成り立たない。尾張源氏浦野重遠の子山田重直の第6子右兵衛尉重長が初めて足助氏を称して源為朝女を妻とし,2代重秀の妻は三河守護安達盛長女,4代重方は従五位下佐渡守で昇殿を許されたとあるので(尊卑分脈),足助氏が下司職を保持した開発領主であり,かつ源平内乱期に重長が源氏方で戦死しているので,鎌倉期にもその地位を保持したのであろう。承久の乱に重方の弟重成が京方で討死しているが,足助氏の地位に変動はなかったのであろう。もっとも室町期成立の「足助八幡宮縁起」によれば,元弘3年に領主は足助又三郎から吉河殿に変わり,建武4年の当荘領主は武蔵守源基連とある(足助八幡宮文書/豊田市史6)。しかし,元弘元年の笠置籠城の首将足助重範,宗良親王の和歌集「李花集」に見える足助重春,後醍醐天皇宸筆感状(尊経閣文庫所蔵文書)を与えられた足助重治らが南北朝期に南朝方で活動しているので,在地における勢力は保持していたのであろう。重治は康永元年に懐良親王に従って九州へ赴き,重春はその翌年安芸へ移って小早川氏に仕えたというが(足助町誌),15世紀に足助氏が当荘を領していた史料があるので,一族が分裂したのであろう。応永29年□月29日付足利義持御判御教書で土岐肥田瀬三郎持康に「相伝当知行之旨」によって,足助荘内仁木郷が安堵された(徳川黎明会所蔵文書/岐阜県史史料編古代中世4)。これに対し足助次郎淳重は,「先年足助左馬助御敵之時,祖父重胤〈左馬助舎弟〉雖令諷諫,不承引仕之間,隠居仕之処,被聞食披,被召出之,致忠節,被下還補御判等訖」であったが,土岐宮内大輔がこれを押領し,土岐御器所・土岐肥田瀬と伝えたものであるとして還付を求めた。永享2年9月18日に幕府は淳重の訴えを認めている(御前落居奉書/室町幕府引付史料集成上)。文安・永享番帳に見える奉公衆2番衆足助氏はこの淳重の子孫であろう。16世紀には足助氏は没落して鈴木氏の領するところとなった。荘内には仁木郷のほか大田加(大多賀)・野原村・阿摺村・介木郷・外下山内滝脇郷・戸島ノ郷中ナベタ村(加茂郡),名倉郷・野入村(設楽郡)が見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354161
最終更新日:2009-03-01




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