ケータイ辞書JLogosロゴ 足助村(近世)


愛知県>足助町

 江戸期〜明治22年の村名。加茂郡のうち。はじめ幕府領,元和6年尾張藩付家老成瀬隼人正正成領,同9年その分家の下総栗原藩領,寛永16年旗本松平氏知行,寛文9年幕府領,同11年中島藩領,同12年幕府領,天和元年からは旗本本多氏知行。この本多氏は天和3年寺社奉行を勤めて1万石となり足助藩を称したが,貞享4年からは再び7,000石の旗本となり,陣屋を当村に置く。村高は,寛永6年検地帳425石余,「寛永高附」363石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに639石余,「旧高旧領」642石余。寛永6年検地帳によると,東町・西町・田町・新町の4町とそのほかからなっており,名請人総数249人,うち屋敷を持たない者107人,屋敷だけの者51人,また漆の木11本と楮89束が記録され,漆1本に付米3合,楮1束に付米1升の小物成が課せられている。足助は古くから交通の要地として栄え,中世には西三河山間部の軍事・経済の中心をなしてきたが,矢作【やはぎ】川・巴川の水運や中馬・三州馬が発達する元禄年間になると,信州街道の宿場町・在郷町としての色彩が濃くなり,足助町を称するようになる。天保年間の足助宿には,塩屋14軒・蚕種売り14軒・穀屋10軒・味噌屋6軒・油屋6軒・豆腐屋6軒・酒造り6軒などが見られた。宿屋の数は安政7年には10軒,元治2年には13軒を数えた。信州伊那地方で消費する塩の大部分は当地を経由するもので,三河湾の大浜・棚尾,成岩,生田,饗庭の塩や瀬戸内海などの西国塩が矢作川・巴川水運と中馬によって当地に集まった。足助の主な問屋には塩座があり,そこで塩ふみを行い,塩俵の重量を統一し包装を整えたが,これは信州への山坂を馬の背によって運搬するために必要な作業で,このため伊那地方では塩を足助塩と呼ぶことが多かった。塩問屋の焼印を押された俵がうず高く積まれた景観は,足助宿を象徴するものであった。文化11年には,本多家知行23か村の惣百姓が陣屋門前へ集まって13か条の要求を出す強訴事件が起き,天保7年には加茂一揆が押し寄せて7人の商人が打毀にあった。また足助では西町を出る荷物1駄12文,1荷6文,筏36文の荷ノ口銭(通行料)を徴収したので,天保15年口銭廃止を要求する馬方との間に荷ノ口論が起き,弘化3年まで続いた。その参加村数は約100か村(足助町誌)。足助八幡宮は周辺約50か村の郷社で,祭礼には町方から山車4台,村方からは飾馬と棒の手,鉄砲隊の警固が出る。寺院には香積寺・普光寺・慶安寺・長昌寺(現廃寺)・観音寺・宗恩寺があり,浄土真宗の宗恩寺以外は曹洞宗。また,鈴木正三建立の十王堂(現十王寺)もある。なお,竜昌院もあったが,宗派・由緒ともに不明。明治2年三河の伊那県支配地を管轄する伊那県足助支庁が置かれ,同3年には足助仮学校を設置。同11年東加茂郡に所属し,その郡役所が置かれる。同22年足助村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354162
最終更新日:2009-03-01




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