ケータイ辞書JLogosロゴ 安城(中世)


愛知県>安城市

 南北朝期から見える地名。三河国幡豆【はず】郡のうち。「在覚袖日記」文和4年8月25日条に「参河国安城照空房」とある(安城市史資料編)。文明3年に松平信光が当地の安祥城を占領して以後,松平一族からの寺院への田地寄進がしばしば行われた。明応6年7月には松平親忠が「合三反二石成,在所安城」の田地を善立寺に寄進している(善立寺文書/岡崎市史6)。特に文明7年に安城松平初代の親忠が菩提寺として創建した大樹寺への寄進は多く,文亀元年8月に松平長親が「一段 在所安城むかひ田」を寄進したのをはじめ,享禄5年8月には松平利長が「合弐反壱石成〈在所安城〉」を寄進した(大樹寺文書/同前)。なお,永正14年12月13日付牧内光親寄進状には「売主安城之郷御百姓名辺田四郎二郎名田」と見える(同前)。安城松平氏の発展に伴い,安城を訪れる文化人も現れ,連歌師宗長も大永7年に訪れている(宗長手記)。しかし,天文9年6月に織田信秀が安祥城を占領して以後,安城も松平,織田,今川の戦乱の渦中に巻き込まれる。天文9年12月28日付都筑竹松外二名連署畠地売券に「就安城乱中,償年貢并夫銭ニ入候代物にて候」とあり(妙源寺文書/岡崎市史6),また天文12年5月松平広忠が「安城」の替地として額田郡菅生村の田地を善立寺に寄進しているのもこのためであろう(善立寺文書/同前)。そして,天文18年9月には松平・今川勢が織田方の八面山や桜井城・安祥城を攻撃,同年11月安祥城は落城し,織田信広は捕らえられる。天文18年10月15日付今川義元感状写に「去九月十八日吉良荒河山在陣之刻,為打廻安城・桜井へ相働」とあるなど,今川方の働きが知られる(三川古文書/同前)。これ以後安祥城は今川方の天野安芸守景貫,井伊次郎直盛が守ったが,桶狭間の戦以後は,再び松平氏の支配下にはいった。永禄6年6月付松平元康判物写に「安城名部田分を以百貫文……但安城鍋田分相改」とあり,松平昌利の所領として認められている(譜牒余録/同前)。永禄8年2月15日付名部田新左衛門下地寄進状によれば,「在所安城〈坪馬道門弐斗目,藪崎弐斗目,清之前弐斗目〉」が大樹寺に寄進され(大樹寺文書/同前),天正元年11月日付徳川家康判物写では「安城之内しやくし堂,限道南方」を堀平右衛門入道の所領として認めている(同前)。安城は一向宗門徒の地でもあり,天文18年4月7日付本證寺門徒連判状には「安城 酒井小四郎信家(花押)」とある(本證寺文書/岡崎市史6)。明法寺阿弥陀如来絵像の文亀元年裏書に「三川国幡豆郡志貴荘安城郷願主釈正順」,本證寺所蔵阿弥陀如来絵像の永正10年裏書にも「野寺本證寺門徒参州幡豆郡安城井上願主釈法了」と記される。ちなみに,親鸞の肖像画は「安城の御影」と呼ばれ,建長7年に弟子専海が当地で描かせたものと伝える(宗祖世録)。「家忠日記」天正8年正月23日条に「安城にて万疋渡候」とある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354298
最終更新日:2009-03-01




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